Vol. 58 岩谷産業の水素ビジネスに歴史あり
(2014年10月2日)
私が客員教授をつとめている大阪経済大学で、経営者をゲスト講師に招いて「北浜・実践経営塾」を毎月開催していることは、このコラムで何度かご紹介しましたが、9月のゲスト講師は岩谷産業の牧野明次会長兼CEOでした。
岩谷産業は最近、燃料電池車の燃料として水素を供給するための水素ステーション建設に乗り出し、株式市場で注目を集めています。しかし同社の水素事業は最近になって始まったものではなく、その歴史は実に戦前にまでさかのぼります。
岩谷産業は1930年(昭和5年)に岩谷直治が大阪で創業しましたが、その11年後の1941年(昭和16年)に早くも水素と出会っています。工業生産の過程で副次的に発生する水素ガスはそれまではすべて空気中に捨てられていましたが、創業者の岩谷直治はそれに目をつけ、水素ガスの販売を始めたのです。
戦後になって1958年(昭和33年)に本格的に水素ガス販売事業を開始しました。1978年には日本で初めて商業用の液化水素製造プラントを堺に建設し、宇宙開発事業団(現・JAXA)にロケット用の液化水素の納入を開始しました。
牧野会長は講演で、同社のこうした水素事業の歴史を紹介してくれました。牧野会長によると、堺のプラント建設を決めた当時、社内には反対論が強かったそうです。しかし創業者の岩谷直治(当時社長)は「水素は人類の究極のエネルギー。必ず成功する」と言ってプラント建設を推進したのでした。
岩谷はまさに日本のビジネスのパイオニアと言えます。現在では国内の水素供給市場の約60%のシェアを握っています。今日、同社が燃料電池車向け水素スステーション事業で脚光を浴びているのも、こうした長い歴史と技術の積み重ねとがあったからこそなのです。
岩谷直治は1985年(当時82歳)までの55年間にわたって社長をつとめました。その後も会長、名誉会長として後進の指導にあたり、2005年に102歳で亡くなりましたが、そんな直治が残した「新しいものに挑戦する」という社風は現在も引き継がれているそうです。
それが水素事業への取り組みにも表れていると言えるでしょう。同社は自動車メーカーの燃料電池車の量産化に合わせて、2015年までに20か所の水素ステーションを先行的に建設することを表明していますが、それと同時に水素の製造から輸送、利用まで含めた水素事業の拡大を図る方針で、牧野会長は「水素社会の実現に向けて水素事業拡大を図る」と語っていました。
ところでこの講演では、世のサラリーマンにとって勇気づけられる話しも飛び出しました。
牧野会長は1965年に同社に入社したのですが、最初の配属が大阪市内の小さな営業所。商社だと思って入社したら、仕事はプロパンガスのボンベの配達。入社1日目からショックを受けたそうで、すぐにやめようと思ったそうです。何とか辛抱して仕事を続けたものの、若いころは組合活動で苦労し、組合内部の対立などで出世も遅れていました。
しかしその後は名古屋支店長に抜擢されて同支店の業績を立て直すなど、次々と会社の業績回復に腕を振るって。取締役、常務、専務と出世階段を上っていきました。
ところが本人によると「当時の社長にモノを言いすぎた」とかで、54歳の時に「子会社の社長に飛ばされた」そうです。本社の取締役も外されました。そうなると、「ほとんどの人は挨拶にも来ない。年賀状も来ない。冷たいものだと思った」と、当時を振り返っていました。そこで、ここで骨をうずめようと思い「この子会社を本社から独立するぞ」と宣言して懸命に仕事をしていたら、2年後に「本社の副社長で戻ってこい」との人事が出たのでした。
ちょうど本社の業績が再び悪化していたことがその背景にあったようで、牧野さんは副社長として業績立て直しに成功し、その2年後には社長に就任したのでした。
この話しを聞いていて、「北浜・実践経営塾」の7月のゲスト講師、住江織物の吉川一三社長と似ているなあと感じました。このブログでも書きましたが、吉川さんも上司にズケズケ言ったため2度も左遷されたものの、仕事に全力投球した結果、認められて本社に復帰し社長に就任しました。
むしろ順調に来た人の方が少ないのかもしれません。左遷された経験がその後に生きているのでしょうし、要はそこでどのような仕事ぶりを見せるかが勝負なのだと、つくづく思いました。
*本稿は、ストックボイスHPのコラムに掲載した原稿(9月26日付け)を転載したものです。