経済コラム「日本経済 快刀乱麻」

Vol. 2 「関東大震災を乗り越えた先人の教訓・その1
~後藤新平が残した本当の教訓とは~」

(2011年07月04日)

東日本大震災から4ヶ月近くが経った。被災地では復興に向けた必死の努力が続き、全国から支援の手が差し伸べられているが、政府の復興策はいまだに方向性が見えない。果たして東北は復興できるのか、日本は再生できるのか。しかし日本には何度も危機に直面しながらも、国民が知恵と力を結集して国難を乗り越えてきた歴史がある。今から約150年前の幕末、1854年から1855年にかけての2年間で3度にわたる大地震と津波に見舞われ(安政の三大地震)、江戸から東海、近畿、四国にかけての広い範囲で甚大な被害を受けたが、当時の日本人はそれを乗り越えて明治維新を成し遂げた。1923年(大正12年)には関東大震災で首都・東京は壊滅的な被害を受けたが、後藤新平が大胆な都市改造を実行して東京の復興を成し遂げた。我々はそうした先人の経験を学んで教訓を生かしながら、日本人の知恵と力を結集すれば、必ず復興できると確信している。

後藤新平のリーダーシップの中身

震災復興の先人といえば、まず後藤新平の名を思い浮かべる。今回の震災後メディアでもしばしば取り上げられ、菅首相も何度かその名を口にしている。やはり後藤新平のリーダーシップなくしては、東京の復興はなかったといえるだろう。ではそのリーダーシップの内容とはどんなものだったのだろうか。

よく指摘されているのが、大胆な都市改造計画の内容と規模だ。震災前の東京の町並みは江戸時代の名残がまだ残っていて、道路も狭く入り組んでいたため、震災の被害が拡大した。このため後藤は復興を機に大規模な区画整理と幹線道路や公園の整備を行って防災に強い都市に改造すると同時に、欧米並みの近代的な都市への再開発を実現することをめざした。復興のために後藤が最初に示した計画の予算は、当時の国家予算の約2倍にあたる30億円。現在に当てはめれば180兆円に相当するから(今年度の一般会計予算は約90兆円)、いかに後藤の計画が大胆だったかがわかる。最終的には復興予算が5億円弱まで削られてしまい、後藤の計画は部分的にしか実現できなかったが、それでも今日の東京の基礎を作ったことは間違いない。

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震災の翌日には復興基本案

後藤のリーダーシップという点で、もう一つ重要なのがスピードだ。実は関東大震災が起きた1923年(大正12年)9月1日は内閣が不在だった。その少し前の8月24日に当時の首相(加藤友三郎)が病死したため、山本権兵衛元首相が後任として指名され組閣作業を開始したが、難航。山本は後藤に内相就任を要請したが、後藤は政治的立場が異なるとしてこれを断っていた。その最中に大震災が起きたのだ。そこで後藤はこれまでの行きがかりを捨てて急きょ内相就任を受諾し、震災の翌日(9月2日)、第二次山本権兵衛内閣が発足した。

非常事態に直面して入閣を決断するのも早かったが、そのあとの動きもまた素早かった。山本内閣が発足したその日のうちに、後藤は復興の基本方針を書き上げた。それが前述の東京改造計画だ。そして4日後の9月6日には閣議に「帝都復興の議」を提出、それをうけて9月27日に「帝都復興院」が設立されて、後藤が総裁に就任したのだった。何というスピード感であろうか。これだけの短期間に復興の基本方針を示し実施組織まで作ったことは、後藤が単なる「大風呂敷」ではなかったことの証左でもある。まさに「想定外」の事態となっても大局を見ることの出来る判断力と瞬時の決断力、ビジョンを提示する構想力、それを実現する実行力――政治家のリーダーシップとは何かを、まざまざと教えてくれている。

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反対にあい復興予算は大幅削減

だがそういう後藤をもってしても事はなかなか思い通りにいかなかった。この点は比較的見過ごされているが、それもまた歴史の事実だ。前述の帝都復興院と並行して、復興の具体策を話し合う諮問機関として帝都復興審議会が設立されたが、ここで後藤の復興計画はさまざまな反対にあう。同審議会は首相経験者など長老や有力政治家で構成されていたが、後藤に対する個人的な反発や政党間の争いもあって、大胆な都市計画に反対し予算削減を強く要求したのだ。その結果、復興予算は当初の30億円から5億7000万円まで削られ、ようやく12月に入って議会に復興予算案が提出された。議会ではさらに削られ、最終的には4億6000万円となって、ようやく年末に成立したのであった。

これは、当時の政治家が都市計画に対して理解が足りなかったこと、議会多数派の政友会が農村を基盤としていたため東京への集中投資に反対したことなどが原因と見られる。どうも目先の政治的利害にとらわれて大局的な議論が少なかったようだ。特に当時は政争が激しかった。大正年間は「大正デモクラシー」や「平民宰相・原敬」など政治面ではいいイメージがあるが、実は政党政治が未成熟だったことなどから政争が繰り返され、大正年間の15年間で首相が11人も代わっている。こうした政治状況が現在と重なって見えるのは、筆者だけではあるまい。

後藤にとって苦難はまだ続く。計画が大幅に削られたものの、ようやく復興予算が成立した直後の12月27日、当時の皇太子(後の昭和天皇)が狙撃される事件(虎ノ門事件)が起きた。その責任をとって山本内閣は年明け後の1924年(大正13年)1月7日に総辞職、後藤も内相・帝都復興院総裁を辞職したのだった。復興事業はその後引き継がれて実施されていくが、後藤自身が復興の陣頭指揮を執ったのは、わずか4ヶ月だった。後藤が描いた東京大改造も、不十分なままで終わってしまった。

こうしてみると、我々が学ぶべき教訓が明らかになってくる。後藤のリーダーシップから学ぶことは大事だし、そうした声が多いのは心強い限りだ。しかし同時にその後藤の計画をつぶしにかかった“負の教訓”も忘れてはならない

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