経済コラム「日本経済 快刀乱麻」

Vol. 3 「関東大震災を乗り越えた先人の教訓・その2
~シャープ創業者・早川徳次の壮絶な人生~」

(2011年07月04日)

関東大震災を乗り越えた先人の中からもう一人、シャープの創業者・早川徳次の名前を挙げたい。早川徳次は幼い頃から苦労して育ちようやく東京で始めた会社が成長軌道に乗り始めた時、関東大震災で妻と二人の子どもを亡くし、財産も失った。悲しみと絶望のどん底から早川は心機一転、大阪に移り住んで小さな会社を起こし、コツコツと努力して今日のシャープを築きあげたのである。そんな早川徳次の一生を駆け足で振り返ろう

苦難の連続だった少年時代

早川徳次は明治26年(1893年)に東京・日本橋で生まれた。しかし満2歳になる少し前、母親が病気のため養子に出されることになった。これが徳次の苦難の人生の始まりだった。そのときが徳次と両親の生涯の別れとなったのだが、まだ幼かった徳次は両親のことは全く覚えていない。幸い、養父母は徳次をとてもかわいがり、実の息子のように育てたという。

だがそれから2年後、養母が若くして急死した。養母が亡くなってから1年後に養父が再婚するのだが、その再婚相手が徳次をことごとくいじめたのだった。養父のいないところで折檻される毎日が続き、食事もろくに与えられなかった。そのため徳治の身体は同じ年頃の子どもより一回り小さかったという。6歳で小学校に入学したが、8歳でやめさせられ、内職を一日中手伝わされた。

徳次の自伝『私と事業』にこんな一節がある。
「ある冬のことであった。裏長屋のことで共同便所があった。何かに立腹した養母は私を壷の中に突き落としたのである。ウァーっと言う私の悲鳴を聞きつけて近所の人たちが騒ぎ立て、やっと引き上げてもらったことがある。すると今度は臭い臭いと言って、私を井戸の側に立たせ、頭から冷水をさぶりと浴びせるという仕打ちであった。」

なんともすさまじい。いじめを通り越して、虐待である。こんな徳次少年を見かねて、近所に住む盲目の女性が錺(かざり)職人の家に丁稚奉公に連れ出してくれた。9歳の頃だ。この家には20人近くの職人や弟子がいて、かんざしや洋傘の付属品の金属加工を手作業でやっている店だった。丁稚奉公だから、朝は早くから夜遅くまで家の掃除や食事の支度、雑用など一日中働きづめで、もちろん給料などなく、わずかな小遣いをもらえる程度だ。それでも徳次は一生懸命働き、主人にかわいがられながら、次第に金物職人としての技術を習得していった。もともと手先が器用だったこともあって、一人前の職人として認められるようになり、18歳のときに独立する。1912年(大正元年)のことである。

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独立後はビジネスで成功、シャープ・ペンシルを発明

独立のきっかけは、ベルトに穴をあけずに使えるバックルを発明したことだった。徳次の特許第1号で、「徳尾錠」と名づけ、大ヒットした。ちょうど人々の服装が着物から洋服に急速に変わっていく時代の流れに合っていた。その後は持ち前の手先の器用さとアイデアで、次々と新製品を生み出し多くの特許をとった。

その中の代表作がシャープ・ペンシルだ。当時、繰り出し鉛筆と呼ばれる商品が出始めていたが、セルロイド製でこわれやすく、太くて使いにくかったため、徳次は得意の加工技術と創意工夫で新製品を開発し、1915年に特許を取得した。これが後の会社名「シャープ」の起源だ。

シャープ・ペンシルは当初は販売に苦労したが、まず欧米で売れ始め、それをうけて国内でもヒットし始めた。増産に次ぐ増産となって、新工場を相次いで建設、数年後には従業員200人を抱える企業に成長していった。今で言えば、躍進目覚しい新興企業というところだ。

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関東大震災で妻子も財産も失う

ところが、1923年9月1日を境に彼の運命は再び暗転する。当時、徳次は30歳、すでに結婚して二人の男の子がいた。かわいい盛りの9歳と7歳だった。地震が起きた後の火事が広がって本所区(現在の墨田区)にあった自宅と工場に火の手が迫ってきたため、徳次は妻子を一足先に避難させた。だがそれが子ども二人との永遠の別れとなった。奥さんと子どもたちが避難の途中で火事に巻き込まれ、川に飛び込んだが亡くなったのだった。奥さんは奇跡的に助かったが、そのときの火傷などのため約2ヵ月後に亡くなった。徳次自身、妻子の後を追って避難する途中に火事で大火傷を負い煙を吸って倒れたが、九死に一生を得て生き延びた。

関東大震災では本所区の9割が火災で焼失し、同区内だけで約5万人もの人が亡くなっている。徳次は家族と同時に自宅と工場も失った。少年時代の筆舌に尽くし難い苦労から脱して、ようやく家庭の幸せと事業の成功を手に入れたと思ったら、全て失ったのである。そのうえ追い討ちをかけるように、大阪のある取引先の会社が借金2万円の返済を迫ってきた。現在なら10億円ぐらいだろうか。進退に窮した徳次はシャープ・ペンシルなど全ての特許をその会社に無償で譲渡する形で借金を清算したのだった。しかも半年間は大阪で技術指導に当たるというおまけ付きで。家族も財産も失ったうえに、理不尽な要求をしてきた会社のために、今度は大阪へ……。これ以上のどん底があるだろうか。

夜行列車で大阪に向かうときの様子を、徳次は自伝の中でこう振り返っている。

「あちらこちらと焼けた建物の跡が、夜の孤灯の影に黒く横たわっているのを新橋近くの車窓から見るともなく見ていた。(中略)今の夜汽車の中の心の冷えは、ただ11月の夜気だけでないことを身に沁みて感じたのであった。」

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大阪で再起、鉱石ラジオの国産化に成功

しかし、ここから徳次の奇跡的な復活が始まる。例の会社での半年間の技術指導が終わったあと、徳次は大阪で再起を図ることを決意する。そこで東京時代の従業員3人とともに、早川金属工業研究所を設立した。1924年9月1日、震災からちょうど1年後のことだった。これがのちのシャープである。創業の地・大阪府東成郡田辺町(現在の大阪市阿倍野区)は今もシャープの本社だ。

当初は金属加工の下請けでスタートしたが、徳次はさっそく本領を発揮する。ちょうどその頃、日本でラジオ放送が始まることが決まったが、それに目をつけたのだ。「これからはラジオの時代だ」。放送開始に先駆けて日本に初めて輸入された鉱石ラジオをいち早く入手して、仲間と一緒に分解や試作を重ねた。しかし誰もラジオの原理も電気の初歩もよく知らない。試行錯誤で研究した結果、約3ヵ月かけて鉱石ラジオセットを完成させた。国産第一号のラジオ受信機である。1925年(大正14年)のラジオ放送開始ともにラジオセットを売り出したところ、爆発的な売れ行きとなったのだった。このラジオセットに「シャープ」の名前をつけ、シャープの名前は全国に知れ渡っていった。

こうして徳次はよみがえった。その後、シャープは鉱石ラジオに続いて真空管ラジオを開発、ラジオ部品の輸出など海外にも進出した。こうしてシャープは事業を拡大していった。終戦後には苦しい時期もあったが、それも乗り越え今日に至っている。徳次は1970年まで社長をつとめて、今日のシャープを築いた。また大阪で再婚し子どもも生まれて、改めて幸せな家庭を築くことも出来た。

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早川徳次の人生に、震災復興のヒントと希望が…

このように振り返ると、彼が震災から立ち直れたのは、どんなに苦境にあってもあきらめない強い気持ちと不屈の精神、そしてラジオの開発に見られるようなチャレンジ精神があったからこそだろう。それは子ども時代の苦労で培われたものかもしれない。

だが、それだけではない。徳尾錠もシャープ・ペンシルも、そしてラジオも、すべて時代の流れを読んで、それにあった商品を開発しているのだ。それを、手先の器用さという「技術」が支えた。

それともう一つ見逃せないのが仲間の力だ。大阪で再起を図ったとき、東京時代の3人の従業員が、しばらくして10数人が合流して創業期を支えた。彼らの力なくして復興はかなわなかっただろうし、今日のシャープはなかっただろう。また早川は社外の多くの人たちにも助けられた。東京時代の友人や先輩が資金援助や仕事を回してくれたし、鉱石ラジオの開発や販売では大阪の時計店主が全面的に協力してくれた。だれでも一人の力でやれることには限りがある。しかし多くの人の力が集まれば、不可能と思えるようなことも可能になる。これこそが今、多くの日本人が意識している“絆”である。 早川はもちろん、それらの人々への恩返しも忘れなかった。さかのぼれば少年時代に地獄から救い出してくれたのは、盲目の女性だった。このことから早川は、戦争で失明した元軍人を中心に多くの身障者をシャープで雇用したほか、生涯を通して福祉活動を続けた。

早川徳次のような優れた経営者はそういるものではない。しかし彼の経験を知れば誰もが元気づけられるはずだし、そこから学ぶべき点も多い。今回の震災からの復興も困難な道のりが予想されるが、早川徳次の壮絶な人生はそれを乗り越えていくヒントと希望を我々に与えてくれている。

*本稿は、株式会社ペルソンのHPに掲載したコラム原稿(6月10日付け)を一部加筆修正したものです。

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