歴史コラム「歴史から学ぶ日本経済」

Vol. 37 渋沢栄一 この国を変える力(『歴史街道』2021年3月号特集より)
益田孝・安田善次郎・浅野総一郎・大倉喜八郎…渋沢と歩んだ男たち

(2021年02月11日)

日本資本主義の父・渋沢栄一のまわりには、いつも多くの経済人がいた。渋沢が「合本(がっぽん)主義」を基本理念に掲げ、彼らの資本と力を結集したことが、日本の経済発展につながったのである。渋沢とともに日本経済を創った数多くの男たちの中から、6人を紹介する。

益田孝 「合本主義」実現の相棒

渋沢は明治2年(1869)に新政府の民部省に出仕し、同省の実質トップだった井上馨の下で国立銀行の創設や貨幣制度の確立に奔走した。その時に、民部省と合併した大蔵省に入ってきたのが益田孝で、以後、長きにわたる交流が始まる。

益田は、大阪で創業したばかりの造幣寮(後の造幣局)の現地責任者となり、頭角を現していった。だがそのわずか1年後、政府内の対立から井上と渋沢が大蔵省を辞職、益田も一緒に辞めてしまった(明治6年<1873>)。

その後、井上が興した貿易会社で副社長を務めた後、井上と渋沢の口利きで三井組入りして三井物産会社を設立、社長に就任した(明治9年<1876>)。同社は三井の中核企業に成長し、益田は三井財閥の事実上の総帥となっていく。

一方、渋沢は大蔵省を辞めた後、第一国立銀行の頭取に就任するとともに、数多くの企業を次々に設立していった。

益田はその渋沢に全面的に協力、後述する大倉喜八郎、浅野総一郎、安田善次郎らとともに抄紙会社(後の王子製紙)、大阪紡績(後の東洋紡)、共同運輸(詳細は後述)、東京瓦斯(現・東京ガス)、東京電燈(東京電力の前身の一つ)、帝国ホテルなどの設立に参加した。

さらに渋沢とともに東京商法会議所(現・東京商工会議所)を設立し、会頭となった渋沢の下で、益田は副会頭に就任している。東京株式取引所(現・東京証券取引所)の設立時には主要株主として参加した。

このほか渋沢と益田は、教育者や研究者など幅広い分野の人たちとも協力し、新しい産業育成や人材養成に力を注いだ。

その先駆けとなったのが、東京商法講習所(一橋大学の前身)だ。後に初代文部大臣となる森有礼が実業人育成をめざして開設したもので、渋沢と益田は資金支援した。

その後、森が清国公使に転出したため、同講習所は閉鎖の危機に直面、渋沢と益田は同講習所を東京会議所(東京商法会議所の前身的組織)に移管して存続させた。益田は、同講習所の卒業生の多くを三井物産に採用している。

また、アドレナリンなどの発見で有名な高峰譲吉がまだ若手研究者だった頃、「これからの日本は人造肥料(化学肥料)の製造会社が必要」と、渋沢と益田に相談、二人は大倉や浅野らとも協力して「東京人造肥料会社」(現・日産化学工業)を設立した。

このとき益田は、高峰と一緒に欧米へ視察に出かけている。高峰は後に世界的な科学者となったが、三共(現・第一三共)を設立し社長に就任するなど実業家としても活躍した。渋沢と益田は、そうした高峰を育てたとも言える。

このように、益田は渋沢の「合本主義」の強力な相棒だった。三井で益田の後輩だった藤原銀次郎は後年、「明治初年の財界は渋沢と益田のコンビで指導されていた。渋沢さんは徳を代表し、益田さんは智を代表していた」と回顧している。

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古河市兵衛 危機破綻の危機に…

さて渋沢は、大蔵省時代から手がけた第一国立銀行の設立を実現したが、実は開業早々に大きな試練に見舞われた。

同行の設立に際し、渋沢は江戸時代以来の豪商である三井組と小野組から出資と役員派遣を受けており、両組は新銀行の主な融資先でもあった。

ところが銀行開業からわずか1年後の明治7年(1874)、小野組が経営破綻してしまったのだ。第一国立銀行から小野組への融資額は同行の資本金の半分以上の規模に達していたが、ほとんどが無担保の信用貸しだったという。銀行も破綻の危機に直面したのである。

この時、小野組の番頭だった古河市兵衛が渋沢を訪ねてきた。渋沢と古河は第一国立銀行や抄紙会社の設立を通じてすでに親しい間柄だったが、古河はこの時、自分より8歳年下の渋沢に手をつき「銀行に迷惑はかけない。自分が所有している財産をすべて差し出す」と申し出て、声を上げて泣いたという。

これによって銀行はぎりぎりのところで債権を回収することができたのだった。

渋沢は古河の態度に深く感動した。後に「このような時はそれなりに誤魔化すのが世の常である。ところが古河氏は隠すどころか、自分から相応の抵当品を提供して、男らしい立派な処置である」と振り返っている。

渋沢は古河を厚く信用し、無抵当で資金を融資した。こうして古河は再起を果たし、やがて鉱山王として成功することとなる。

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安田善次郎 「陰徳陽報」の銀行家

古河の潔い対応によって危機を乗り切った渋沢は、新銀行の経営安定に力を注ぐとともに、第一国立銀行の後続の国立銀行各行の設立指導と調整にあたった。その時期に、後に安田財閥を築く安田善次郎と知り合う。

安田は安政年間に20歳で江戸に出て鰹節屋兼両替店に丁稚に入り、26歳で独立し両替店を開業した。丁稚時代、店の土間に脱ぎ捨てられた履物をいつもそっと揃えるなど、「人知れず善行を積めば必ず報われる」という信念を持って実践していたという。

こうした「陰徳陽報」の考え方は、生涯を通じて貫かれた。銀行家として名を成した後、東大安田講堂や日比谷公会堂の建設資金を匿名で寄付したことは、その表れである。

若い頃から堅実な商売を積み重ねた結果、善次郎は幕府からの御用も任じられるようになり、店は急速に成長していった。

そして世は明治。新政府は政府紙幣や公債を発行したが、新政府の信用がないため、多くの両替商は引き受けに消極的だった。そんな中で善次郎はこれを引き受けて政府の信頼を獲得し、莫大な利益を上げることができた。

その頃、全国各地に国立銀行が設立され始める。安田は、設立されたばかりの第三国立銀行の経営を引き受け、開業した。

安田の銀行経営は両替店で培ったノウハウと顧客サービスで評判を呼んだという。安田は各地で始まった国立銀行の設立と経営を指導するとともに、経営難に陥った銀行の救済を数多く引き受け、同銀行は大きく成長していった。

銀行経営を通じて渋沢と安田は交流を深め、銀行同士の調整や情報交換などのため「択善会」を作った。今日の全国銀行協会の源流だ。

また銀行経営だけでなく、東京商法会議所や数多くの企業の設立にも参加するなど、二人の協力関係は幅広い分野に及んだ。

渋沢の第一国立銀行は後に第一勧業銀行、安田の第三国立銀行は富士銀行となり、平成に至ってみずほフィナンシャルグループとして統合した。歴史の粋なめぐり合わせと言えようか。

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浅野総一郎 逆境にめげない若者

渋沢は第一国立銀行設立と並行して、抄紙会社を設立した。紙幣発行や新聞の創刊など、近代化に伴い紙の需要増大が見込まれることに対応したものだ。

操業開始は明治8年(1875)。その翌年のある日、渋沢は工場の河岸に着いた船からの石炭の荷揚げを指揮しながら自らも労働者と一緒に熱心に作業に従事している男の姿に引き付けられた。これが浅野総一郎だった。

浅野は現在の富山県出身で、安田と同郷だった。地元でさまざまな商売を始めたが、ことごとく失敗。24歳の時(明治4年)に夜逃げ同然で東京に出たが、強盗に押し入られたり、近所の火事で家が全焼するなど、災難続きだったという。

しかし浅野はへこたれなかった。近代化によって石炭の需要が高まることに目をつけて石炭販売を始め、抄紙会社への石炭納入に成功したのだった。紙の生産には燃料として大量の石炭を使うので、抄紙会社は大口の取引先だ。

さらに、石炭を燃やした後に出るコークスが廃棄物になっていたのをただ同然で引き取り、セメント製造の燃料に再利用することで、莫大な利益を上げるようになった。

このような時、渋沢の目に留まったのだった。逆境にめげず裏表なく働く浅野を信用し、しかも時代の流れを読んで事業を展開していることを知って、経営者としての才覚を高く評価したのだろう。これをきっかけに、渋沢は浅野の事業を支援するようになる。

明治17年(1884)には、コークスを納入していた官営深川セメント製造所が浅野に払い下げられ、渋沢の出資も得て浅野セメント工場を発足させた。後の浅野セメント(現・太平洋セメント)で、浅野財閥の事実上の出発点となる。

浅野は東京瓦斯や帝国ホテルなど多くの企業設立にも参加し、渋沢の事業に協力した。

時代は少し下るが、大正年間には京浜地区の大規模埋め立て事業を計画、渋沢と安田が全面的に支援して成功させた。こうして形成された京浜工業地帯が戦後の高度経済成長の中心となったことは、周知のとおりである。

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大倉喜八郎 事業に命を懸けた‟冒険家”

渋沢といつも一緒にいた経済人がもう一人いた。後の大倉財閥の総帥、大倉喜八郎だ。人柄も、実業家としてのタイプも違う二人だったが、公私にわたる交流が50年以上に及んだ。

大倉喜八郎は文字通り、事業に命を懸けた「冒険家」だった。18歳の時、生まれ故郷の越後から江戸に出て来て丁稚奉公を経て、独立して乾物屋を始めたが、時は幕末の動乱期、鉄砲の需要が増えると読んで鉄砲屋を開業した。

しかし鉄砲は危険な商売で、命がけの連続。戊辰戦争の際には彰義隊に連行され、「官軍に武器を売ったのはけしからん」と斬られそうになったこともあるという。

明治の世になり、外国との貿易に着目した大倉は1年半にわたる欧米視察の旅に出た。実業家が単独で欧米に渡航したのは日本初、またもや大冒険である。

帰国後の明治6年、外国貿易を行う大倉組商会を銀座で開業、土木建築にも進出、銀座煉瓦街復興工事や日本初のアーク灯点灯などで話題を呼んだ。

渋沢の回顧によれば、大倉との出会いは明治10年(1877)。この頃、朝鮮で大飢饉が起こり、日本政府が支援の米や麦を輸送しようとしたが、ほとんどの商人が尻込みした中、大倉が引き受けたのだった。

大倉は「国家のためには一身を捨ててもこの仕事はし遂げなければならない」と渋沢に語り、渋沢は「この人は尋常一様の人ではない。たしかにわが党の一人であると思った」という。

これを機に二人は急速に親交を深めていく。1年後の明治11年(1878)に益田らと協力して東京商法会議所を設立し、同年の東京株式取引所の設立に際しては主要株主となった。

その後、大阪紡績、東京瓦斯、帝国ホテルなど、渋沢が手がけた多くの企業設立に際して発起人や創立委員として参加したほか、渋沢の協力を得て日本初の建設業法人となる日本土木会社(大成建設の前身)を設立し、大倉が社長に就任した。

こうして渋沢を中心に、益田、安田、浅野、大倉などのネットワークが形成されていったのだった。

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五代友厚 「東の渋沢、西の五代」

渋沢が経済界のリーダーに躍り出た明治の前半期、大阪で活躍していたのが五代友厚だ。二人が一緒に仕事する機会は少なかったが、経歴や業績、さらには考え方でも共通点が意外なほど多い。

幕臣だった渋沢は慶応3年(1867)、パリ万博の幕府の随行員としてパリにやってきたが、同万博では薩摩藩が「日本薩摩太守政府」との看板を掲げて幕府とは別ブースに出展し、幕府代表団を慌てさせた。この‟事件”が幕府の国際的権威を失墜させたと言われているが、実はそのおぜん立てをしたのが五代だったのだ。

薩摩藩士だった五代は慶応元年(1865)、薩摩藩が密かに派遣した英国留学生19人の団長格として英国に渡った後、欧州各地を視察して回った。その際、フランス貴族との間で薩摩藩単独でのパリ万博出展を契約して帰国していた。

渋沢にとって五代は因縁の相手ということになる。しかし二人とも、欧州滞在によって最新の経済事情や制度への理解を深め、その経験を後に大いに活かすことになる。

明治になり、五代は新政府の大阪の事実上の行政責任者として造幣寮の立ち上げを主導したあと官を辞し、ビジネスを通じて造幣寮への支援を続けていた。渋沢が大蔵省に入った時、五代はすでに民間人となっていたが、造幣寮は渋沢の所管でもあったことから、この頃に五代と知り合ったとみられる。

実業家に転じた五代は大阪で数多くの企業を設立、支援した。大阪製鋼会社(後の住友金属工業、現・日本製鉄)、大阪商船(現・商船三井)、阪堺鉄道(現・南海電鉄)をはじめ、紡績、貿易、鉱山など多岐にわたっている。

また渋沢が東京商法会議所と東京株式取引所を設立したのと連携して、五代は同じ年に大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)と大阪株式取引所(現・大阪取引所)を設立した。

さらに、渋沢が森有礼とともに東京商法講習所を設立したのと同じように、五代は大阪商業講習所(現・大阪市立大学)を設立している(ちなみに森有礼は、五代と一緒に渡英した薩摩藩士留学生の一人である)。

五代の活動は渋沢と同じように、経済人らと共同で事業を行ったものがほとんどで、五代はこれを「商社合力(ごうりき)」と称した。「商社」とは会社のこと、「合力」は合資を意味しており、多くの経済人の資金を結集して会社を作るという考え方だ。渋沢の基本理念である「合本主義」とほぼ同じである。

五代が関与した企業の中に、前述の共同運輸がある。当時の国内海運をほぼ独占していた三菱に対抗して、益田の三井グループを中心に渋沢、浅野、大倉らが政府の後押しを得て設立した会社で、五代もこれに参加した。

その後、同社と三菱は数年間にわたり激しい運賃値下げ競争を繰り広げたが、共倒れが危惧される事態となり、五代らがあっせんに入った。この努力もあって明治18年(1885)、両社は合併合意に至り、日本郵船会社(現・日本郵船)が発足する。

だが残念なことに、同社の正式発足直前、五代は50歳で亡くなった。もっと渋沢との‟合力”を見たかったと、つくづく思う。

*本稿は『歴史街道』2021年3月号に掲載した原稿を転載したものです。
(数字など一部の表記を変えています。なお、文中の年齢は数え歳)

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