歴史コラム「歴史から学ぶ日本経済」

Vol. 16 注目度急上昇!五代友厚に学ぶ(上)~薩摩藩“勝利の秘密”と日本経済復活へのヒント

(2016年02月10日)

NHK朝ドラ「あさが来た」で主人公の白岡あさ(明治の女性実業家、広岡浅子がモデル)に大きな影響を与える人物として元薩摩藩士・五代友厚が登場し、注目を集めている。五代は薩摩藩が明治維新を成功させる上で重要な役割を果たし、明治維新後は大阪で実業家として活躍し「大阪経済の父」と呼ばれた。五代なくしては日本の産業近代化はなかったと言ってもいいほどの人物だ。彼の業績は今日の日本経済と企業経営のあり方を考えるうえで学ぶべき点が多い。

少年時代から世界に関心

五代友厚がどのような人物だったのか振り返ってみよう。1836年、薩摩藩の町奉行で学者でもあった五代秀尭の二男として生まれた。幼名は徳助。少年のころから利発だったという。友厚が14歳の頃、藩主になる直前の島津斉彬が手に入れた世界地図の複写を父・秀尭に命じ、父はそれを友厚に託した。友厚は2枚複写して、1枚を斉彬に献上し、1枚を手元に残して自室の壁に貼って毎日眺めていたという。そのうえ、その地図をもとにして直径60㌢ほどの地球儀を自分で作成したとも伝えられている。斉彬は、その才能に感心して「才助」という名前を与えた(友厚は明治になってからの名前)。

1836年と言えば、まだペリー来航(1853年)より以前である。14歳の少年がその時代からすでに海外に目を向けていたとは驚きだ。これが後年、彼が活躍する素地となる。当時、開明派の名君として知られていた島津斉彬の影響もあったのだろう。元服してから藩内でめきめきと頭角を現していく。

ペリー来航後の1855年、幕府は洋式海軍創設と士官養成のため長崎に海軍伝習所を設立し、幕臣とともに有力藩からの伝習生も受け入れることになった。薩摩藩もそれに応じ16人の伝習生を派遣したが、五代はその中の1人に選ばれた。

長崎海軍伝習所跡(長崎県庁敷地内)=筆者撮影

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長崎で外国船購入を担当、人脈広げる

長崎海軍伝習所では航海術の訓練研修を受けたのをはじめ、測量、地理、砲術などを学んだ。その期間中に藩主・斉彬が急死したため(1858年)、五代は急きょ鹿児島に帰国したが、再び長崎に戻り、藩の外国掛として、外国船の購入交渉などを担当した。長崎滞在中に、幕臣の勝海舟、榎本武揚ら、長州の桂小五郎(木戸孝允)、土佐の坂本龍馬、岩崎弥太郎など、さらには英国人商人、トーマス・グラバーなど、のちに日本を動かすようになる“大物”たちと知り合い交流を深めた。こうした幅広い人脈も、のちに生きてくる。

長崎滞在中の1862年には2度にわたり上海に渡航している。1度目はグラバーと一緒に上海に行き、藩のために蒸気船を購入している。当時は幕府使節以外の海外渡航はまだ禁止されていたので、これは密航である。2度目は幕府が上海に貿易船を派遣すると聞いて乗船を希望したが認められなかったため、水夫となってもぐりこんだという。何という熱意と行動力であろうか。この時、同じ船に乗り合わせた高杉晋作と知り合っている。

五代はさらに1863年までに合わせて3隻の蒸気船をイギリスやアメリカなどから購入している。実業家としての才覚はすでにこの頃から発揮されていたと言える。薩摩は当時の各藩の中でも早くから近代化に取り組んでいたが、五代は常にその中心にいたのである。

また一連の蒸気船購入ではグラバーの助けを借りている。その後もイギリスへの留学生派遣や武器購入などで、グラバーは五代を通じて薩摩藩との関係を深めていく。グラバーは薩摩の他、長州や坂本龍馬なども援助し、明治維新の“陰の立役者”ともいえるが、その中にあって五代との関係は大きな役割を果たしていたのである。

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薩英戦争が転機に~藩はグローバル路線に転換

そして1863年、五代にとっても薩摩、いや日本の歴史にとっても大きな転機となる薩英戦争が起きる。同戦争の発端はその前年の生麦事件がきっかけだった。現在の横浜市生麦で、当時の藩の最高実力者・島津久光の行列に乱入する形となったイギリス人を薩摩藩士が殺傷した事件で、イギリスは犯人処罰と賠償金を要求したが薩摩が拒否したため、イギリスは艦隊を鹿児島湾内の奥深くまで進攻して鹿児島城下を砲撃したのだ。この時、五代は自らが購入した藩所有の蒸気船を守ろうとして同僚の松木弘安(のちの明治政府の外務卿・寺島宗則)と一緒に乗船していたが、イギリス軍に焼かれて沈没させられ、五代らはイギリス軍の捕虜となってしまった。

この戦争で薩摩はイギリス艦隊にも一定の損害を与えたものの、鹿児島城下は火の海となり、軍事力の差を見せつけられた。そして外国に負けないためには、まず自前の軍事力強化とその基礎となる経済力の強化が必要だと悟るのである。この考え方はもともと斉彬が提唱していたもので、そのための近代化事業を推進していたのだが、斉彬の死後は「外国を排撃すべし」という偏狭な攘夷論が藩内でも強まっていた。薩英戦争での敗北はそのような攘夷論を捨てる大きなきっかけとなった。薩摩藩はイギリスと和解し、逆にイギリスから武器や技術を導入し、藩の富国強兵と殖産興業を推進する方針に舵を切る。いわばグローバル路線への転換である。

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藩の使節としてイギリスへ渡航

そんな中、イギリス軍から程なく釈放されて薩摩に戻った五代は、留学生をイギリスに派遣する計画を上申書にまとめ提出した。若い藩士にイギリスの最先端の学問と技術を学ばせるとともに、武器や機械設備の導入や欧州の情報収集を直接行うことが目的で、上申書では派遣する藩士の候補者名まで記している。

1865年、五代と松木(前述)ら3人が藩の正式の使節として選ばれ、15人の留学生と通訳1人の合計19人がイギリスに派遣された。いわば藩ぐるみの密航だが、それほど藩としても重視していたのである。メンバーの中には、のちの文部大臣となった森有礼など、帰国後に薩摩藩とその後の明治新政府や産業界で活躍する人材が数多く含まれている。

薩摩留学生がイギリスに向け船出した海岸。五代は長崎から蒸気船に搭乗し、ここで留学生と合流して出発した(鹿児島県いちき串木野市)=筆者撮影

五代はイギリスでは主に武器購入や機械購入の商談などを行っている。その代表的なものは、紡績機械の大量購入だ。マンチェスターにあった世界最大の紡績機械メーカーを訪れ、紡績機械の購入と工場の設計・建設・稼働の指導のための技術者派遣で合意することに成功した。このあたり、のちの実業家としての能力をすでに発揮していたと言える。

この契約に基づいて、7人の技術者が薩摩に派遣され、我が国初の洋式機械紡績工場が建設された。完成後は、120台のイギリス製機械を蒸気機関で一斉に動かしていたそうで、世界でも最先端工場となった。現在、工場は残っていないが、イギリス人技術者の宿舎は現存しており、昨年に世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の一つとなっている。

五代は、イギリスの軍事力を含む国力の源泉は産業革命の成功にあったことを見抜いていたのだろう。だからこそ、蒸気船や武器の購入だけでなく、紡績機械に目をつけたと思う。このような五代の活動によって薩摩は最先端のイギリスの技術を導入し急速な産業発展を遂げていった。今日風に言えば、それが薩摩の成長戦略であり、薩摩の勝利の原動力となったのである。

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薩摩の「成長戦略」が明治維新の原動力に

なお面白いことに、五代のマンチェスター訪問がのちの大阪との縁につながっていく(詳しくは次号で)。薩摩藩は明治になって、鹿児島紡績工場の分工場として堺に紡績工場を設立し、それが大阪周辺で紡績産業が発展するきっかけとなったからである。大阪は後年「東洋のマンチェスター」と呼ばれるようになったが、その基礎を作ったのは五代だったと言える。

翌1866年に五代はイギリスから帰国。藩の外国貿易の責任者となる御納戸奉行格の外国掛に任命され、おもに長崎で外国商人との折衝や藩の貿易取引などに走り回った。ちょうど薩長同盟が成立した頃で、明治維新前夜である。長州藩の高杉晋作や桂小五郎らと共同で商社の設立を計画したり(実現はしなかったようだが)、坂本龍馬率いる海援隊とも交流も深めるなど、討幕勢力の経済的な基盤強化に大きな役割を果たしていた。

明治維新と言うと一般には西郷隆盛や大久保利通が有名だが、彼らが表舞台で活躍できたのも、五代が薩摩の経済力を飛躍的に高めることに貢献していたからこそなのである。それなくして明治維新は成り立たなかったと言っても過言ではない。五代のようなグローバルな視野、時代の変化を見通す先見性と優れた経済センス、目を見張る行動力、そして幅広い人脈と交渉力、これらこそ現在の日本企業が元気になるために必要なことではないだろうか。

2年後の2018年は明治維新からちょうど150年になる。明治維新と同じように、日本が長年の低迷から脱出して新しい時代を迎えることができるかどうか、これからが正念場である。日本経済が復活するために必要なことは何かを五代は教えてくれている。次号では明治維新後の五代友厚を見てみよう。

※掲載写真の無断使用を禁止します

*本稿は株式会社ペルソンのHPに掲載した原稿(2016年2月1日付け)を転載し、写真を追加したものです。

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