歴史コラム「歴史から学ぶ日本経済」

Vol. 5 「アベノミクスの『3本の矢』~毛利元就が残した教訓とは~」

(2013年3月7日)

アベノミクスによって、株高・円安が進み、デフレ脱却と経済再生への期待が高まっている。安倍首相は大胆な金融緩和、積極的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略の3つを政策推進の柱に掲げ、これを「3本の矢」と呼んでいる。「第1の矢」である金融緩和は、1月に日銀と共同声明を発表し物価目標2%を決めたのに続き、2月25日に日銀の正副総裁人事案を提示した。「第2の矢」である財政政策は2012年度補正予算と来年度予算。「第3の矢」については産業競争力会議で議論を始めており、6月までに具体策をまとめる予定だ。「3本の矢」戦略は着々と進行している。

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「三子教訓状」で兄弟の結束を説く

「3本の矢」の起源は、周知のように毛利元就の教えだが、その教訓の本当の意味を改めて思い返してみよう。「3本の矢」の教えとは、毛利元就が3人の息子(隆元、元春、隆景)に「1本の矢ではすぐに折れてしまうが、3本を束ねれば簡単に折れない。だから3人が力を合わせて毛利の家を守れ」と諭した故事に由来している。

この逸話は、毛利元就が死ぬ間際に3人の息子を枕元に呼んで遺言として聞かせたとよく紹介されるが、実はその場面はありえなかった。なぜなら元就は1571年に74歳で亡くなったが、長男の隆元はそれより8年前の1563年に40歳の若さで亡くなっているからだ。史実は、元就が家督を長男の隆元に譲った際(1557年)、兄弟の結束を呼びかける文書を書いたものだ。当時すでに次男の元春は吉川氏、3男の隆景は小早川氏に養子に入っていたが、長男の隆元を中心に毛利家を守るように説いている。その文書は「三子教訓状」と呼ばれ、毛利家の家訓となった。三子教訓状は14条で構成されており、3人の兄弟が結束するよう繰り返し述べている。

「元春と隆景は他家を継いでいるが、これは当座のこと。毛利の二文字を疎かにしてはいけない。毛利を忘れることがあってはならない」(第2条)

「3人の間柄が少しでも分け隔てがあってはいけない。そんなことがあれば3人とも滅亡すると思え。他家を破った毛利の者は、多くの者に憎まれているのだから」(第3条)

「元春と隆景は、毛利さえ強力であれば、それぞれの家中を抑えることが出来る。元春と隆景はそれぞれの家中を抑えられると思っているだろうが、もし毛利が弱くなれば、家中の者たちの心も変わるものだ」(第4条)

「隆元は、元春、隆景と意見が合わないことがあっても親心を持って耐えよ。元春、隆景は長男の隆元に従うのがものの順序だ」(第5条)

こうして読むと、元就の強い思いが表れている。くどいと感じるほどだが、どうも3人兄弟の仲はあまりうまくいっていなかったようなのだ。次男・元春と3男・隆景は知略と武勇に優れているとの評判だったが、長男の隆元はおとなしいタイプだったようで、元就から家督を譲られた際も一度は辞退したと伝えられている。他家に出た弟たちはそんな兄をやや軽んじ、独自性を強める傾向があったのかもしれない。元就はそうしたことに危機感を持ち、3人の兄弟が力を合わせるよう諭したのだった。

ちなみに、この三子教訓状では実は「3本の矢」そのものの記述は見当たらない。3本の矢に類した逸話は海外にもあるそうで、そうした逸話と三子教訓状の内容がいつの間にか一体化し、「3本の矢」の説話として形成されていったものと思われる。だが三子教訓状に「3本の矢」の記述がなくても、その精神は同じであり、重要性が失われるものではない。

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「3本の矢」の効果~「両川体制」で毛利家は発展

三子教訓状の効果は大きかった。毛利家の家督を継いだ隆元を中心に、3人の兄弟は結束を強めるようになった。これを、元春の吉川家と隆景の小早川家という二つの苗字から「毛利両川体制」と呼ぶ。隆元が40歳で亡くなったあと、その長男・輝元(元就の孫)が11歳で毛利家の家督を継いだが、この幼い当主をおじの元春と隆景が補佐して毛利家を守り立てた。こうして毛利家は中国地方全体を支配下におさめ、織田信長・豊臣秀吉と拮抗する勢力をもつようになったのだった。

三子教訓状の教えはさらにその後、毛利家の危機を何度も救うことになる。時代は下って1594年、天下の実権を握っていた豊臣秀吉は甥の秀秋(当時は秀俊)を毛利輝元の養子にすることをねらっていた。秀秋はそれまで豊臣秀吉の養子となっていて豊臣家の有力な後継者の一人と見なされていたが、秀吉に実子・秀頼が生まれたため、秀秋の処遇に困って、毛利家に送り込もうとしたのだった。当時、当主の輝元には実子がいなかったため、養子を送り込むには好都合で、秀吉としては秀秋の処遇問題解決とともに、毛利家を完全に支配できるという狙いもあった。これを察知した小早川隆景は一策を講じた。自分にも実子がいなかったことを理由に、秀秋を小早川家の養子に迎えることを申し出て、秀吉に認めさせたのだった。いわば、自分の小早川家を犠牲にして毛利本家を守ったのである。

小早川家を継いだ秀秋は隆景の死後、関ヶ原の戦い(1600年)で西軍から東軍に寝返ったことで有名だが、その2年後に20歳の若さで死亡し、小早川家は断絶してしまう。歴史に「もしも」はないと言われるが、あえて「もし、あのとき秀秋が毛利本家の養子に入っていたら」と考えると、毛利本家は早々と断絶していたかもしれない。まさに小早川隆景の判断が毛利家の危機を救ったといえるだろう。

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関ヶ原の戦いで「3本の矢」はバラバラに
~毛利家は存亡の危機に~

その関ヶ原の戦いは、毛利家にとって最大の危機となった。当主の輝元は西軍の総大将に担ぎ上げられ、大阪城(当時は大坂城)に入った。だが、両川の一角である吉川広家(吉川元春の3男、元就の孫)はひそかに東軍に通じ、徳川家康から毛利家安堵という約束を取り付けていた。関ヶ原の戦いには西軍として参加したが、陣を張った場所から動かずに戦闘には参加せず、吉川勢の後ろにいた他の西軍が戦闘に参加するのを邪魔する役割を果たした。

そのおかげもあって関ヶ原の戦いは東軍に勝利に終わったが、徳川家康は広家との約束を破り、西軍の総大将だった毛利輝元を処分し毛利家を取り潰そうとする。家康が最初に示した沙汰は、毛利家の所領はすべて没収、そのかわり吉川広家は事実上東軍に味方した功績により長門・周防2カ国37万石を与えるというものであった。

これに驚いたのが広家だ。「輝元は西軍総大将に祭り上げられだけで、本気ではなかった。なんとしても毛利の家だけは存続を許してほしい」「その代わり自分の領地はいりません」と必死に家康に懇願した。毛利本家を何としても守ろうとする広家の気持ちにほだされたのか、家康が最終的に下した決断は、広家に与えようとしていた長門・周防2カ国を毛利家に与えるというものだった。それまでの中国地方全体を支配する120万石から見れば大幅な減封だが、毛利家はギリギリのところで守られた。これが長州藩である。広家自身は長州藩の支藩のような扱いで岩国に3万石を与えられた。

こうしてみると、広家もまた自らを犠牲にして毛利本家を守ろうとしたことがわかる。関ヶ原の戦いで東軍に通じたのも、あくまでも毛利家のためを思ってのことだった。事前に家康に毛利家の安堵を約束させていたことが、それを示している。「3本の矢」の教えがここでも生きていたのである。

しかしその一方で、そもそも毛利家当主の輝元が西軍の総大将となったのに、吉川広家は徳川家康と通じ、小早川秀秋も戦場で東軍に寝返って決定的な役割を果たしてしまったわけで、吉川と小早川の両川が毛利家を窮地に追い込んだのも、また確かである。3本の矢がバラバラになっていたのである。まさに3本の矢の教えを逆説的に示しているといえるだろう。

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アベノミクスの「3本の矢」は実行段階に

「3本の矢」の本当の教えとは、3本そろっているだけではダメで、3本を束ねて力を合わせることが重要だということだ。アベノミクスの金融緩和、財政政策、成長戦略という「3本の矢」も、その3つが政策的にうまく合わさって力を発揮するものである。

その観点からアベノミクスを検証してみると、2月下旬に重要な動きが続いた。安倍首相は2月22日、ワシントンでオバマ米大統領と会談したのをうけてTPP(環太平洋経済連携協定)の交渉参加に踏み出し、続いて帰国直後の25日には日銀の正副総裁人事案を提示した。そして翌26日には2012年度補正予算が参議院で可決、成立した。これらはすべて「3本の矢」でつながっている。

日銀の正副総裁人事は「第1の矢」である金融緩和実行の体制を作るものだ。総裁候補の黒田東彦氏、副総裁候補の岩田規久男氏ともに金融緩和積極論者であり、政府と連携しながら一段の金融緩和を推し進めることが期待される。補正予算の成立は「第2の矢」。続いて、来年度予算案の国会審議もこれから本格化する。TPP参加は「第3の矢」の成長戦略を具体化するためには欠かせないものであり、安倍首相がTPP参加を事実上表明したことは、「第3の矢」の具体化に向けて大きなハードルを越えたことになる。こうして3本の矢がそろって実行段階を迎えたといえる。

これまではアベノミクスへの期待で株高・円安が進んできたが、アベノミクスはいよいよ中身を伴って実行段階に移ってきた。「3本の矢」の真価はこれから試されることになる。

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