歴史コラム「歴史から学ぶ日本経済」

Vol. 12 幕末の薩摩に日本経済再生のヒントあり

(2014年11月7日)

薩英戦争でグローバル路線に転換

最近はちょっとした歴史ブームである。歴史から学ぶことは多い。現在の日本経済再生のあり方を考えるうえでも、歴史を知ることは有益である。そのような観点から、しばしの間、幕末の薩摩にタイムスリップしてみよう。

1862年、薩摩藩主・島津茂久の父で藩の最高指導者だった島津久光の行列が武蔵野国生麦村(現在の横浜市鶴見区生麦)を通りかかった時、4人の英国人が馬に乗ったまま行列の中に乗り入れてきた。藩士たちは英国人に馬を下りて道を譲るように要求したが、言葉が通じなかったこともあって、英国人は馬に乗ったまま行列の中をどんどん突き進み、ついに久光の乗っている籠に接近した。そのため供回りの藩士たちが彼らに斬りつけ、英国人1人が死亡、2人が重傷を負った。有名な生麦事件である。

英国は幕府と薩摩藩に抗議し関係者の処罰を求めたが、らちが明かなかったため、翌1863年、7隻の艦隊を鹿児島湾に侵入させ、陸地に向かって次々と砲撃。砲弾は鹿児島市街に着弾して民家などを焼失させ、甚大な被害を与えた。この薩英戦争が大きな転機となったのだった。

それ以前の薩摩藩内には攘夷論を唱える藩士が数多くいたが、武力の圧倒的な差を見せつけられ、攘夷論の愚かさを悟ることになったのである。それ以来、薩摩藩は英国の技術を導入することによって自らの経済力と軍事力を向上させる路線に舵を切る。いわば“グローバル路線”への転換である。

その結果、薩摩は近代兵器で軍備を増強し、やがて薩長同盟を軸として討幕、明治維新へと突き進んでいった。その動きを英国は支援し続けた。こうして薩英戦争は、まさに日本の歴史の転換点となったのだった。

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藩士19人を密かに英国に派遣

このような歴史の奔流の陰で、薩摩藩が密かに実行した“一大プロジェクト”があった。薩英戦争後の1865年、若い有望な藩士19人を英国に派遣したのである。英国の先進的な知識や技術を吸収するとともに、英国との外交関係を強化することがねらいだ。

19人の内訳は、藩使節が3人、通訳1人、16人が留学生。藩使節は明治になって大阪証券取引所の初代会頭となった五代友厚、外務大臣となった寺島宗則など、留学生の中にはのちに文部大臣となった森有礼などがいた。リーダー格の五代、寺島などは30歳代前半、留学生は20歳前後が中心だったが、13歳の少年もいた。

その多くは蘭学などを学んでいた優秀な藩士だったが、藩首脳部は留学生の人選にあたって、強硬な攘夷論を唱えていた3人の藩士もあえて含めたという。なかなか味なことをやるものだ。しかしその3人が辞退したため、島津久光が自ら説得にあたったと伝わっている。

しかし留学生と言っても、当時はまだ幕府が一般人の海外渡航を禁じていたため、これは「密航」だ。そのため藩は、沖合の島の調査という名目の出張命令書を出したうえに全員に変名を与えるなど、幕府の監視を逃れる工作までしている。島津久光の説得といい、薩摩藩がそこまでしていたとは、いかに留学生派遣を重視していたかがわかる。

こうして鹿児島を密かに出発した留学生たち一行は、香港、シンガポール、ボンベイ、スエズ、ジブラルタルなどを経て、2か月かけた船旅ののちロンドンに到着した。香港ではガス灯を見て、夜の街の明るさに驚き、スエズでは完成間近い運河工事を見学しながら蒸気機関車に乗っている。ロンドンに着いたら、数年前に完成したばかりのビッグベンに度肝を抜かれたという。

ロンドンでは大学で勉強しながら、英国の工場や農場などを見学して回り、多くの知識や技術を習得している。現地では薩摩スチューデントと呼ばれて評判になったようだ。彼らの優秀さや礼儀正しさを賞賛する記事が現地の新聞に掲載されている。

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明治維新を準備した行動力

藩使節の五代友厚らは機械メーカーとの間で紡績機械の買い付け契約を結び、同社の技術者を鹿児島に派遣し技術指導に当たるよう要請している。この時買い付けた機械は現在、鹿児島市にある尚古集成館で保存展示されており、英国からの技術者の宿舎も保存されており、これらは来年の世界遺産登録を目指している「明治日本の産業革命遺産~九州・山口と関連地域」の一部となっている。

また五代らは英国で量の銃を買い付けて薩摩に送り、それが戊辰戦争で威力を発揮した。寺島宗則は英国の外務大臣と直接面会し、英国政府が薩摩支援を強化するよう交渉している。明治になって外務大臣となった寺島だが、この時点ですでに外務大臣ばりの行動である。

当時、実は長州藩も5人の藩士を密かに英国に派遣していた。こちらは長州ファイブと呼ばれる。そのうち伊藤博文と井上馨(のちの外務大臣)は下関戦争の勃発で一足先に帰国していたが、残る3人と薩摩スチューデントは偶然ロンドンで出会うことになる。もちろんお互いにその存在を知らなかったわけで、驚いたことだろう。しかしすぐに打ち解け、情報交換したり助け合ったりしている。

日本の将来について夜を徹して語り合ったこともあったという。当時はまだ薩摩と長州は犬猿の仲だったが、もはや彼らは藩という枠にとらわれないグローバルな視野を身につけていたと言えるだろう。

こうした彼らの活躍については、歴史好きの人なら多少は知っているだろうが、一般にはあまり知られていない。明治維新というと、西郷隆盛や大久保利通に脚光が浴びがちだが、彼らの行動は薩摩藩だけでなく明治維新後の日本の近代化に大きく貢献したのである。

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高い志を伝える「薩摩藩英国留学生記念館」

薩摩藩英国留学生記念館 =筆者撮影

彼らが英国に向けて船出した鹿児島県いちき串木野市の海岸に今年7月、薩摩藩英国留学生記念館がオープンした。留学生たちは渡航用の船が来るのを待って2か月この地に滞在したそうで、彼らにゆかりの物や資料が地元に多数残されており、それら数多くの資料が展示されている。前述の「出張命令書」や留学生が残した手紙などを見ると、当時の彼らの緊張と興奮が伝わってくる。彼らは出発の前にここでちょん髷を切り落としたという。それは武士として、極めて大きな覚悟だったに違いない。髷を切ってまで、そして国禁を犯してまでして、海外へ出かけて行ったわけで、その志が時代を動かしたのだ。

記念館のすぐ前に、まさにそこから船出したという岩場がある。そこに立つと、目の前には東シナ海が広がっている。遥か彼方のロンドン目指して、ここから船出していったわけだ。そこに、日本人の底力を見た思いがした。

グローバル戦略とチャレンジ精神、時代を切り開く志の高さと日本人としての自信――幕末の薩摩には日本経済再生のヒントが詰まっている。

薩摩留学生が船出した海岸 =筆者撮影

※掲載写真の無断使用を禁止します

*本稿は、株式会社ペルソンのHPに掲載したコラム原稿(2014年10月29日付け)を転載したもので、写真を新たに掲載しました。

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