歴史コラム「歴史から学ぶ日本経済」

Vol. 10 明治日本のグローバル化の先駆者に学ぶ

(2014年5月3日)

薩摩藩も若き19人を英国に密かに派遣~薩英戦争で路線転換

前回のコラムで、英国帰りの長州藩士・遠藤謹助が明治になって大阪造幣局長となり、現在の「桜の通り抜け」を始めたことを書きました。これには薩摩藩との縁も交差しています。

幕末の長州藩が攘夷を叫ぶ一方で、密かに伊藤博文など5人の若い藩士(長州ファイブ)を英国に派遣したのと同じように、薩摩藩も若い藩士19人を密かに英国に派遣しました。1865年のことです。

鹿児島中央駅前の「若き薩摩の群像」=筆者撮影

そのきっかけとなったのは1863年の薩英戦争でした。その前年に薩摩藩は生麦村(現在の横浜市)で英国人を殺傷する事件を起こし(生麦事件)、英国はその報復として鹿児島湾内に艦隊を侵入させて市街地を砲撃しました。大きな被害を受けて武力の差を見せつけられた薩摩藩は攘夷の愚かさを悟り、英国の軍事力と技術力を導入する“グローバル路線”に転換します。

ちょうど長州藩が下関戦争をきっかけに攘夷の無力さを悟って路線転換したのと、時期も展開もほぼ同じです。これがのちの薩長同盟成立の条件を用意することになるのです。

英国に派遣された19人の中には、明治になって初代文部大臣となった森有礼、外務大臣をつとめた寺島宗則などがいます。彼らの現地での活動によって、薩摩と英国の結びつきは一段と強まり、英国が討幕を助けることにつながりました。英国が薩摩に提供した最新鋭の銃や軍艦、およびそれらの製造技術によって、薩摩藩は近代的で強力な軍備を整え、戊辰戦争で幕府軍を圧倒したのでした。

また彼らはロンドンで奇しくも長州ファイブの遠藤謹助たちと知り合い交流を深めています。当時はまだ薩長同盟が成立する以前のことで両藩が犬猿の仲だったにもかかわらず、です。彼らがすでに藩の枠を超えてグローバルな発想に立っていたことを示しています。

このように彼らは英国で得た知識や技術、人脈などを持ち帰り、明治維新の達成とその後の近代化に貢献したのです。

現在の鹿児島市の表玄関である鹿児島中央駅に降り立ちますと、英国に派遣された19人の銅像が立っています。「若き薩摩の群像」と名付けられたこの銅像は昭和になって建てられたものですが、いかに鹿児島の人たちが彼らの功績を高く評価しているかがわかります。

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大阪経済発展の父、五代友厚

その薩摩派遣団の中で、私が特に取り上げたいのは五代友厚です。五代は1866年まで英国に滞在しましたが、訪英の目的の一つでもあった紡績機械の買い付けに成功しました。それを受けて、機械とともにイギリス人技師7人が鹿児島に派遣され、日本初の近代的紡績工場が建設されることになります。現在も鹿児島市内にある「尚古集成館」にはそれら機械の実物が保存・展示されており、技師たちが滞在した鹿児島紡績所技師館は重要文化財となっています。

鹿児島紡績所技師館=筆者撮影

五代は帰国後、長崎で日本初の近代ドックの建設も手がけました。これも現在、小菅修船場跡として保存されており、前述の尚古集成館とともに、日本政府が来年の世界遺産登録を目指している「明治日本の産業遺産」の一つとなっています。

五代は明治になると新政府の幹部として大阪に赴任し、明治維新前後に衰退した大阪経済の立て直しに尽力しました。現在、大阪に造幣局があるのはもともと五代の提案によるものです。その設立されたばかりの造幣局に、五代らとロンドンで交流していた遠藤謹助が入り、のちに造幣局長となったのです。その縁が今日の桜の通り抜けにつながったともいえるわけです。

五代はその後、役人をやめて実業界に身を投じました。明治11年(1878年)に大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)や大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)の初代会頭に就任したのをはじめ、住友金属工業(現・新日鉄住金)、商船三井、南海電鉄などのそれぞれ前身となる会社を相次いで設立しました。

このように、五代を抜きにして明治以後の大阪の経済発展を語ることはできません。今日も大阪経済の地盤沈下が指摘されていますが、その復活を目指すうえで、五代の残した足跡を見直すことは意味のあることだと思います。

現在、大阪・北浜にある大阪証券取引所ビルの前には五代友厚の銅像が立っています。実はこのビルの中に、私が教鞭をとっている大阪経済大学の北浜キャンパスがあるものですから、特に個人的に五代友厚への関心が強いのかもしれません。

明治維新の立役者となった西郷隆盛や大久保利通などに比べると、五代友厚や遠藤謹助の知名度はやや劣りますが、日本のグローバル化に果たした役割は大きいものがありました。グローバル化の先駆者ともいえる存在です。

折りしも、オバマ米大統領の来日と合わせて行われたTPP交渉が合意に達しませんでした。国内事情ばかりを気にするような議論ではなく、五代友厚や遠藤謹助などのように世界に目を向けて時代を切り開いてきた先人たちから学ぶことは多いはずです。

*本稿は、ストックボイスHPのコラムに掲載した原稿(4月25日付け)を転載したものです。

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