歴史コラム「歴史から学ぶ日本経済」

Vol. 1 「危機管理の名人・徳川家康に学ぶ」

(2011年07月04日)

東日本大震災では地震と津波に原発事故が重なり、危機管理の重要性が改めて浮き彫りになった。危機管理とはあらゆる可能性と最悪の事態を想定し、それに備えておくことである。しかし今回の一連の事態から見えてくることは、日本は危機管理がきわめて不十分だったということだ。政府や関係者は「想定外」という言葉を口にしたが、「想定」そのものが甘かったといわざるを得ないだろう。
 日本人は危機管理が下手だといわれる。しかし過去の歴史に目を転ずれば、日本にも危機管理の名人がいた。その代表格が徳川家康である。よく知られているように、家康は幼い頃から人質生活を送るなど苦労して育ち、我慢に我慢を重ねてようやく60歳を過ぎてから天下を取ることが出来た。それだけに、苦労して手に入れた徳川の天下が永遠に続くようにと、さまざまな手を打ったのである。これが実に徹底している。まさに究極の危機管理策だ。

「御三家」は徳川家永続のための危機管理策

家康の危機管理策の第一の柱は当然のことながら、徳川将軍家の血筋が絶えないようにすること。そのために作られたのが「御三家」だ。家康は1603年に征夷大将軍に任ぜられたが、わずか2年で将軍職を息子の秀忠に譲った。これには、徳川家が今後代々にわたって天下を治めることを明確に示すねらいがあった。しかし当時、秀忠の息子(家康の孫、後の3代将軍・家光)は生まれたばかりであり、徳川将軍家の行く末は安泰とはまだ言えなかっただろう。もし秀忠の子孫が途絶えるようなことがあれば、それに乗じて天下を狙う大名が出てくるかもしれない。そうした事態にならないように、家康は9男の義直、10男・頼宣、11男・頼房に徳川を名乗らせ、秀忠の子孫に跡継ぎがいなくなった場合にこの3人の子孫のうちから将軍を継がせようとしたのだ。この3人が最終的に尾張、紀州、水戸の藩祖となり、「御三家」と呼ばれるようになった。

この危機管理策は約100年後に効果を発揮する。1716年、7代将軍・家継がわずか6歳で死去した。徳川本家には他に跡継ぎがいなかったため、御三家のうち紀州藩主だった徳川吉宗が8代将軍となったのだ。当時、紀州徳川家と尾張徳川家が次期将軍の座をめぐって争ったと伝えられているが、「次は誰にするか」という争いはあっても、徳川将軍の継続自体は当然のこととして考えられていたし、今でも誰もがそう思っている。だがもしこの危機管理策がなかったとすれば、7代将軍が死去した段階で徳川将軍の継続自体が危うかったかもしれないのである。

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有力外様大名を江戸から遠ざける

危機管理の第二の柱は、大名の謀反によって徳川の天下が倒されないようにすること。そのために危険な有力外様大名を出来るだけ江戸から遠ざけた。まず関ヶ原の戦いで西軍(石田三成側)に味方した大名の処分。中でも問題は毛利、島津、上杉、佐竹の4氏だったが、このうち毛利氏は現在の広島・山口・島根県全域の120万石から山口県の36万石に減封し、本拠地も日本海側の萩に押し込めた。そのうえで毛利の本拠地だった広島には福島正則を清洲(名古屋)から移動させた。福島正則は東軍(家康側)で活躍したため、清洲時代の24万石から約50万石へと倍増させるとともに、毛利のけん制役とする狙いもあった。

同時にこれにはもう一つの意味がある。福島正則はかねて石田三成と激しく対立していたため家康側についたが、もともと豊臣秀吉子飼いで武勇にも優れていたため、家康にとっては警戒すべき人物でもあった。だから福島正則を名古屋という重要拠点からはずして西に追いやったのだ。しかし大幅に加増しているし、転封先も広島という重要拠点だから形のうえでは厚遇だ。そして名古屋には家康の4男・松平忠吉を入れて、名古屋を徳川家のものにした。松平忠吉はその後まもなく病死したため、そのあとに9男・義直を配置し、これが御三家の尾張藩となる。

このやり方は、家康側についた他の外様大名の扱いでも共通している。「功名が辻」で有名な山内一豊は豊臣秀吉の3中老の1人として掛川(静岡県)5万石を与えられていたが、関ヶ原の戦いで家康側につき、その論功で土佐20万石余に加増転封となった。異例の大幅加増だが、土佐という遠隔地への転勤である。同じく豊臣政権の3中老だった堀尾氏は掛川の隣りの浜松12万石から出雲(松江)24万石へ、駿府14万5000石の中村氏は米子17万5000石へと、いずれも加増を大義名分にして、東海道筋という重要拠点から遠方に移動させられた。その後にはすべて松平や譜代大名が入り、東海道筋を徳川ががっちりと抑えることになる。

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二重三重の江戸防衛線

こうして関ヶ原の論功行賞から始まった大名の再配置は、秀忠と家光の時代にかけて繰り返し行われ、江戸防衛という危機管理策が完成していく。広島に移動した福島正則は大阪夏の陣の後の1619年、城を無断で改築したとして改易処分となり、その後には和歌山にいた浅野氏を入れた。ただこれも外様大名だ。その際に広島藩の石高が減らされて備後福山が分割され、福山には家康の親族である水野氏が入った。福山の手前(江戸から見て)の岡山には、関ヶ原で家康側に寝返った小早川秀秋を配置したが、2年後に秀秋の早世によって小早川家が断絶すると、その後任として池田氏を隣りの姫路から移動させた。池田氏は外様ながら家康の信頼は大変厚かったが、当時の姫路は西日本の最重要拠点だった。そのため外様をはずし、そのあとに徳川四天王の一人、本多忠勝の息子・忠政を入れたのだ。

このような中国地方の大名配置は、実は毛利の謀反に対する備えが最大のねらいだった。もし毛利が謀反を起こして江戸に向かって攻め上ろうとしても、二重三重の防衛線で食い止めようというものだ。山陽道は前述の通りだが、山陰側にも津和野には譜代の亀井氏、松江には親藩の松平氏を置いて、毛利の行く手を阻む。

と同時に、家康は毛利と並んで薩摩も警戒した。そこで薩摩への押さえとして、関ヶ原直後は加藤清正を熊本に配した。しかし家光の時代に加藤氏を改易し、その後に外様ながら徳川の信頼の厚い細川氏を小倉から移動させた。そして細川氏のいた小倉には譜代の小笠原氏を入れた。中国筋の再配置と同じパターンだ。特に譜代の小笠原氏を小倉に置いた意味は大きい。小倉は九州と本州をつなぐ重要拠点であり、もし薩摩が謀反を起こして江戸に攻め上ろうとする場合は、ここで本州上陸を阻止することになる。したがってここを守るのは外様ではなく譜代大名でなければならないのだ。

それでも薩摩や毛利がさらに東へと攻め進む場合を想定していた。そこで大阪など畿内地方のほとんどを幕府直轄領か親藩または譜代で固め、畿内から江戸に到る東海道沿いもすべて親藩か譜代を配置した。関東一帯も親藩または譜代で完全に固めている。江戸はこうして鉄壁の守りを敷いていた。まさに危機管理の見本と言えるだろう。

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「最悪の事態」=江戸陥落も想定していた!

だが家康の危機管理策はこれで終わらない。これまで見てきたのは、徳川の天下が倒されないように未然に防ぐ、あるいは途中で食い止める、そのための二重三重の危機管理策を講じているということだ。では万が一、反乱軍が江戸城まで攻めてきたらどう対応するのか? これこそ「最悪の事態」である。しかし家康はそれも「想定」していた。その名残が半蔵門と甲州街道である。半蔵門は服部半蔵の屋敷があったことからその名がついたものだが、半蔵は言わずと知れた伊賀忍者の頭領。かつて本能寺の変が起きたとき、堺に滞在していた家康一行が伊賀越えルートで三河に逃げ帰る際に、服部半蔵が警護に当たるとともに地元・伊賀の土豪などと交渉して家康らを無事に送り届けた功績があった。以来、服部家は伊賀衆を抱えて徳川に仕えていた。半蔵門の位置は江戸城の裏門に当たる。つまり半蔵門は江戸城が陥落したときの将軍の脱出口で、半蔵はその際に将軍を守る任務を帯びていたというわけだ。

その半蔵門から江戸城を脱出した将軍は甲州街道を通って甲府まで落ち延びるというのが、“危機管理マニュアル”だったようだ。もちろんそんな文書は存在しないが、甲州街道の道筋がそれを物語っている。甲州街道は半蔵門を出たところからほぼ一直線に西に伸びているが、当時の重要街道で江戸城と直結している例は他にない。そして甲州に到る途中の多摩地方に八王子千人同心を組織した。これは、武田家滅亡後に召抱えた武田旧臣の一部や地元の郷士・豪農などで構成した集団で、普段は農作業に従事しながら、武蔵と甲斐の国境付近の警護と治安維持に当たる役目を持っていた。身分は低いながらも、彼らはいざという時に将軍を守るという強い忠誠心と使命感を持っていたという。

この最悪の事態を想定した“危機管理策”は、実際に幕末に半分機能することになる。八王子同心の存在によって多摩地方は一般農民に至るまで徳川家に対する忠誠心が強かった。そうした風土の中で幕末に生まれた近藤勇や土方歳三が成長し新撰組の中心となり、幕府のために最後まで戦ったのだ。新撰組のメンバーにはこの地方の出身者が多かったという。(しかし結果は幕府敗北で終わったので、「半分機能」したというわけだ。)

こうしてみると、家康が構築した危機管理策は徹底しており、しかも実際に効果を上げていた。歴史上で徳川家康ほど体系的に危機管理策を構築した人物はいないのではないか。最終的には徳川幕府は倒されてしまったが、政権が260年以上も続いたのはそうした危機管理策があったればこそだといえる。日本人は危機管理が苦手だとよく言われるが、政治においても企業経営においても家康から危機管理の極意を学んでいけば、この困難な時代を乗り切っていくことが出来るだろう。

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