歴史コラム「歴史から学ぶ日本経済」

Vol. 27 『経済広報』連載・「明治150年」から学ぶ日本経済と企業経営
第1回・ピンチを乗り越えチャンスに変えた明治維新

(2018年05月13日)

今年は明治維新(1868年)からちょうど150年の節目の年にあたる。日本が黒船来航によって長い眠りから覚め明治維新によって近代化を成し遂げたことは周知のとおりだが、その時代と現在の日本経済とは重なるところが多い。かつて日本が明治維新によって新しい時代を創ったように、日本経済は長年の低迷から脱して復活を遂げようとしている。明治維新はそんな日本経済の新しい時代を創っていくためのヒントと指針を与えてくれている。

本連載では、明治維新の今日的意義とそのヒントを探っていく。第1回は「ピンチを乗り越えチャンスに変えた明治維新」。

黒船来航は日本が欧米列強による侵略の危機、つまり日本始まって以来最大のピンチに直面していることを意味していた。これに対し、有力各藩や幕府は軍備増強が急務と判断し、鉄製大砲を製造するため反射炉の建設に乗り出した。

そのうち佐賀藩はペリー来航より3年前の1850年に反射炉の建設に着手し、1852年に完成させた。薩摩藩も1851年に藩主に就任した島津斉彬が反射炉をはじめとする近代化事業をスタートさせている。ペリー来航後は、これに長州藩や水戸藩などが続き、幕府も伊豆・韮山に反射炉を建設した。

反射炉は当時の西洋の最新技術だったが、各藩はそれぞれ書物だけを頼りに試行錯誤で作り上げていった。西洋技術の導入は蒸気機関、船舶、紡績などにも及んでいく。こうした取り組みが欧米列強の日本侵略を防ぎ、明治維新の原動力となっていった。

しかし明治維新後もピンチは続いた。明治新政府は幕府が諸外国と結んだ不平等条約の改正に取り組んだが、外国の壁は厚かった。そのため日本が一人前の近代国家と認められるようにと西洋文明を積極的に取り入れ、国力を高めることをめざした。鹿鳴館外交はその一つとして有名だが、根本政策は富国強兵と殖産興業だ。ここでカギとなるのが殖産興業。経済力がなければ国力を高めることはできないからだ。

その代表例が官営製鉄所の建設だ。明治政府はまず1880年(明治13年)に官営釜石製鉄所の操業を開始したが、赤字続きで、わずか3年後に同製鉄所は廃止となった。その後、民間人の手で再開をめざすものの、うまくいかない。結局、49回目の挑戦でようやく操業再開にこぎつけた。

一方、官営八幡製鉄所は1901年(明治34年)に操業開始したが、不具合があって不調が続き、2度も高炉の操業休止に追い込まれた。同製鉄所は国家的プロジェクトとなっていただけに危機的な状況だったという。しかし技術者たちがあきらめずに改善を重ねた結果、2年後には安定的な操業を実現した。

こうして先人たちが幾多のピンチを乗り越え、明治維新とその後の産業発展というチャンスに変えたのである。これが今日の日本経済の土台となっていることを強調しておきたい。今日の日本経済もバブル崩壊、リーマン・ショック、新興国の追い上げなどピンチの連続だったが、それに対応して多くの日本企業は構造改革を進めている。この間のピンチを乗り越えて新たなチャンスをつかむことができるか、今が勝負どころと言える。

*一般財団法人・経済広報センター発行『経済広報』2018年4月号に掲載された原稿を転載したものです。

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