歴史コラム「歴史から学ぶ日本経済」

Vol. 6 「日本のものづくりの原点『産業革命遺産

(2013年9月29日)

政府はこのほど、「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」を世界文化遺産の候補としてユネスコに推薦すると発表しました。2015年度の登録を目指します。

産業革命遺産は、軍艦島の名で知られる長崎市の端島炭坑など、幕末から明治にかけて重工業の基礎となった工場跡など28の施設で構成されており、新日鉄住金八幡製鉄所(北九州市)、三菱重工業長崎造船所(長崎市)など、現在も稼働中の施設も含まれています。これらは単に歴史的な遺産というだけではなく、日本のものづくりの原点を示しているという点で、私は注目しています。

産業革命遺産の28施設の1つに「尚古集成館」という施設が鹿児島市にあります。1851年(嘉永4年)に藩主に就任した島津斉彬が、欧米列強に対抗できる経済力と技術を身につけようと、反射炉(製鉄所)を手始めに、大砲製造、造船、紡績、ガラス、活版印刷などの工場群を建設しました。その跡が現在の尚古集成館です。

元々は島津家の別邸跡で、鹿児島市の中心街から車で20~30分、錦江湾の向こう正面に桜島を望む絶景の場所にあります。石造洋風建物の内部には当時実際に使われた紡績機械や小型旋盤などが展示されており、屋外の庭園跡の一角には、大砲を鋳造した反射炉の遺構が保存されています。

これらを見て驚くのは、薩摩藩が近代化に取り組んだ時期の早さと技術水準の高さです。1851年といえばペリー来航(1853年)より前です。斉彬は若い頃から蘭学を学んで海外に目を向けていたことに加え、琉球を通じて欧米列強のアジア進出の動きをいち早くつかみ危機感を抱いたことが背景と見られます。

ですから、その動きは幕府より早かったのです。まず取り組んだのが反射炉の建設でした。オランダ人が書いた大砲製造法の翻訳書を入手し、それをもとに反射炉の建設を試みましたが、何度も失敗したそうです。斉彬は「西洋人も人なり、薩摩人も人なり」と言って激励したとの話しが残っています。こうした試行錯誤の末に反射炉の建設・稼動に成功したのでした。

ここで特筆すべきは、薩摩で培われてきた技術と西洋技術を融合させていたという点です。反射炉は耐火煉瓦壁を塔のように積み上げて建設しますが、炉の内部は1500度程度の高温に保つ必要があるため、耐火煉瓦には高い品質が要求されます。そこで耐火壁の建設に薩摩焼の陶工を動員し、薩摩焼の技術を応用したのでした。

こうして出来た反射炉の周辺に工場を集め、ここを拠点に薩摩藩の近代化を成し遂げたのです。当時の様子を見ていたオランダ人が「日本人は図面だけをもとに短期間で機械を完成させた。驚異的なことだ」と書き残しているそうです。

まさに、これが日本のものづくりの原点であり、幕末以来こうして培われてきた底力は現在の我々に引き継がれているのです。尚古集成館を訪れると、そのことを実感します。

現在の集成館の運営に当たっている島津公保氏(鹿児島商工会議所副会頭)は「当時の人たちの志を学び、日本の産業界を元気にするためにも、世界遺産の指定を是非実現させたい」と語っています。島津公保氏は薩摩藩主・島津家の子孫で、尚古集成館を含む産業革命遺産の世界遺産登録を目指して活動中です。

産業革命遺産は、このように先人の残した貴重な遺産であるだけでなく、日本の底力を再認識させてくれる存在でもあります。ちょうど日本経済が復活を目指す今、世界文化遺産への登録を目指すことは大変意義深いことで、時宜にかなったものだと思います。ぜひ登録実現を期待したいものです。

*本稿は、株式会社Fanetが運営する資産運用応援サイト「Fanet Money Life」の「日替わりコラム」に掲載した原稿(9月27日付)を転載したものです。
http://money.fanet.biz/study/2013/09/post-50.html

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