歴史コラム「歴史から学ぶ日本経済」

Vol. 4 「鹿児島で実感した日本の底力~幕末の薩摩から学ぶ~」

(2012年7月3日)

近代化の拠点『尚古集成館』~反射炉、機械など展示

尚古集成館本館(国重要文化財)=筆者撮影

先日、講演で鹿児島に行く機会があり、仕事の合間をぬって「尚古集成館」というところに行ってきた。そこは薩摩藩主・島津家の別邸跡で、薩摩藩が幕末にいち早く近代化を成し遂げる拠点となった場所だ。1851年(嘉永4年)に藩主に就任した島津斉彬が、欧米列強に対抗できる経済力や技術を身につけようと、反射炉(製鉄所)を手始めに、大砲、造船、紡績、ガラスなどの製造工場群を建設した。その工場跡が現在の尚古集成館で、当時実際に使われた紡績機械や小型旋盤などが展示され、屋外の庭園跡の一角には、大砲を鋳造した反射炉跡も保存されている。

形削盤(1863年オランダ製)=重要文化財・尚古集成館蔵

これらを見ると、当時の薩摩藩の近代化にかける心意気と技術の高さが伝わってくる。注目すべきは、1851年といえばペリー来航(1853年)より前だということである。島津斉彬は若い頃から蘭学を学び海外の事情や技術についての知識をもっていた。また薩摩藩は琉球を実質的に支配下においていたが、琉球は清国とも通していたため、アヘン戦争や列強各国のアジア進出の情報をいち早く掴んでいた。「清国まで侵略の手を伸ばしてきた列強はやがて琉球列島伝いに日本にやってくる。薩摩藩が真っ先に侵略されてしまう」――こうして危機感を強めた斉彬は藩主に就任早々、近代化事業に着手したのだった。

ページトップへ

欧米列強に対抗し軍備強化と産業振興

その動きは幕府より早かった。幕府の首脳も海外情勢については情報を入手していたが、対応は鈍く、薩摩藩は一刻も早く独自で欧米列強に対抗できる力をつけなければならなかった。まず取り組んだのが反射炉の建設。反射炉とは耐火煉瓦の壁を積み上げた塔を建設し、その内部で燃料を燃やして銑鉄を溶かし鋳型に流し込んで大砲を作る製鉄所のことだ。炉内部で燃やす燃料の炎と熱が炉の壁に反射して鉄を溶かすことから、「反射炉」との名がついたという。列強各国に対抗するには軍備強化が緊急の課題だったが、中でも大砲の製造が重要だったわけだ。

反射炉跡(後方の石垣、国指定史跡)と大砲(復元)=筆者撮影

当時の日本では佐賀藩が最も早く反射炉の建設に着手していた。佐賀藩では、オランダ人が書いた大砲製造法の本を翻訳し、それをもとに建造にあたっていたが、薩摩藩はその翻訳書を佐賀藩から譲り受け、建設と実験を開始した。しかし本を頼りに何度実験してもうまくいかない。斉彬は「西洋人も人なり、佐賀人も人なり。薩摩人も人なり」と言って激励したという。「西洋人や佐賀人に出来たことが薩摩人にできないことはない」という意味で、この言葉に奮い立った薩摩人は十数回の実験を繰り返し、ついに成功させたのだった。

現在、尚古集成館に隣接する庭園跡(仙巌園)の一角に、反射炉の基礎部分の石垣と遺構が残っており、国指定の史跡となっている。

反射炉遺構(国指定史跡)=筆者撮影

軍備だけではなく、産業の育成にも力を注いだ。反射炉の周辺には、鍛冶場、ガラス製造所、造船所、紡績工場などを集め、当時の最新鋭機械を導入、最盛期には1200人もの人が働いていたという。斉彬はここを「集成館」と名づけ、一連の近代化事業を「集成館事業」と呼ぶ。当時の日本では最先端の工業地帯だった。こうして薩摩藩は洋式船の建造を初め、紡績、ガラス、印刷、電信、農業など幅広い分野で産業を発展させ、飛躍的に経済力を強化することに成功する。現在の尚古集成館本館の展示室をのぞくと、当時の最新鋭の機械が並んでいる。紡績機械、旋盤、ローラー磨針機、形削盤・・・・・・中でも旋盤や形削盤などの工作機械の存在は、自前の機械を製造する技術まで持っていたことを示している。明治以前にこのような工場がすでに作られていたとは驚いた。当時の様子を見たオランダ人が「日本人は図面だけをもとに短期間で機械を完成させた。脱帽だ」と記している。

ページトップへ

西洋技術と在来技術を融合~日本のものづくりの原点

さらに驚かされるのは、単に西洋の技術を導入しただけではないということだ。例えば、反射炉の耐火煉瓦壁の建設に薩摩焼の陶工が携わっている。反射炉の内部は1500度程度の高温に保つ必要があるため、耐火煉瓦には高い品質が要求されるが、それに薩摩焼の技術を応用したのだった。薩摩焼は16世紀末以来の歴史を持つ伝統工芸品である。それ自体も薩摩の有力な輸出品だった。

また薩摩では古くから水車利用が盛んで、農業用だけでなく動力として利用されていたようだ。集成館でも機械の動力としてその水車を活用していた。薩摩で培われてきた技術と西洋技術を融合させていたわけだ。

まさに日本のものづくりの原点を見る思いだ。これがあったからこそ明治維新を実現することが出来たのだと実感した。これが日本の底力というものだ。現在の集成館の運営に当たっている島津興業顧問(前社長)の島津公保氏(鹿児島商工会議所副会頭)は「在来技術をベースとして西洋技術を導入するという、この志と技術力があったからこそ、日本は西洋の植民地にならずに短期間で近代化に成功した」と指摘する。島津氏は薩摩藩主・島津家の子孫だけに、その言葉には重みがある。

尚古集成館では当時実際に使われた機械が展示されている(尚古集成館提供)

島津氏たちは今、集成館を含む「九州・山口の近代化産業遺産群」の世界遺産の指定に向けて活動している。当時、集成館をトップランナーとして佐賀、山口などでも近代化が進められ、明治以降の近代化の中心的な役割を担っていくが、その過程を検証できるのが「九州・山口の近代化産業遺産群」だ。島津氏は「当時の人たちの志を学び、日本の産業界に元気を呼び起こすためにも、世界遺産の指定を是非実現させたい」と意気込んでいた。

最近は電機大手の業績悪化に見られるように、日本のものづくりは苦境に立っている。長期の経済停滞もあって、ともすると我々日本人は自信を失いがちだ。しかしだからこそ、こうした先人の残した遺産を受け継いで、日本の強さと可能性を再認識したいものである。そうすれば必ずや、この苦境を乗り越えることができると信じている。

※掲載写真の無断使用を禁止します

ページトップへ