歴史コラム「歴史から学ぶ日本経済」

Vol. 8 姫路城に見る日本の底力

(2013年12月26日)

いよいよ2013年も残りわずかとなりました。来年のNHKの大河ドラマは、黒田官兵衛が主人公だそうです。

黒田官兵衛は兵庫県姫路出身の戦国武将で、豊臣秀吉の軍師として活躍し、秀吉の天下獲りを助けた人です。戦国最強の軍師とも言われ、現代なら社長を補佐する最強のナンバーツーと言ったところでしょうか。

その官兵衛が秀吉の傘下に入る前まで、事実上の城主をつとめていたのが姫路城です。現在では世界遺産になっている姫路城は、戦国から江戸時代にかけて激動の舞台となってきました。

姫路城のある播磨地方は当時、畿内から西へと勢力を広げようとする織田勢とそれに対抗する毛利との間で激しい攻防と駆け引きが繰り広げられていました。この時、官兵衛は織田方につくことを決断し、播磨に進出してきた秀吉に姫路城を献上したのでした。これで秀吉は播磨に足がかりを築くことができ、姫路城を毛利攻めの拠点としました。秀吉が播磨を制したことが、後の天下獲りの第1歩となったのですから、官兵衛の果たした役割は大きかったわけです。

それから数年後の1582年、本能寺の変が起きた際、備中高松(現在の岡山市)で毛利軍と対峙していた秀吉が、大軍をあっという間に取って返し明智光秀を討ったことはあまりにも有名ですが、当初は「信長死す」の知らせを聞いて嘆き動揺する秀吉に対し、官兵衛は「天下獲りのチャンス」と進言したと伝えられています。官兵衛の進言で奮い立った秀吉は急きょ毛利と和睦を結び、明智を討つため京に向けて進撃を開始しますが、途中でいったん姫路城に入り体制を整えています。

このように黒田官兵衛と姫路城は、節目節目できわめて重要な役割を果たしていました。そのころの姫路城はまだ今日の姿に至っていませんでしたが、その後、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、姫路城に有力譜代大名を配し、西国の外様大名たちににらみを利かせる役割を担わせました。万が一、西国の大名が反乱を起こして江戸に向けて攻め上ることがあれば、姫路城は重要な防衛拠点となるものでした。

姫路城が今日の姿に完成したのは、この時期です。ですから実はその美しい外観とは裏腹に、姫路城の内部は戦いに備えた要塞のような構造になっているのです。天守閣をはじめ数多くの櫓には石落とし、矢玉、鉄砲玉など、敵の攻撃から守る工夫を随所に施していますし、何重にも門を配置しています。天守閣に至る道は両側を長い壁ではさまれた狭い迷路のようになっており、もし敵が攻め込んできても容易には天守閣に近づけないようになっています。

それでいながら、あの美しい外観に仕上げているのです。こういうところに日本らしさが発揮されていると、つくづく感じます。

その姫路城は現在、「平成の大修理」と呼ばれる大規模な修理工事が行われています。その様子は間近で見ることができ、そこからも日本らしさを感じとることができます。

今回の大修理では、天守閣にある8万枚もの瓦を1枚ずつ丁寧にはがして新しいものに取りかえていきます。その際、瓦を固定するとともに雨の浸入を防ぐために瓦と瓦の間の「目地」の部分を何度も漆喰で塗り固める作業を行います。それによって見た目も美しくなります。姫路城の特徴である白い壁の漆喰もすべてはがした上で新たに塗り直していきます。どれをとっても気の遠くなるような作業です。しかしそれこそが、日本のものづくりの原点なのです。

姫路城をはじめ日本の城郭は当時の建築技術の粋を集めて建設されたもので、その技術水準の高さには眼を見張るものがあります。日本のお城といえば石垣ですが、膨大な数の石を高く積み上げて、その上に立つ天守閣などの建物の重さに耐え、かつ敵の侵入をふせぐために上部に登るほど傾斜がそりかえっていくような曲線を描く形状、そして見た目の美しさも追求しています。

姫路城を見ていると、こうした建築技術と職人芸が何百年にもわたって継承され、その集大成されたものが現代の日本のものづくりの基盤を作っていると感じます。高い技術力、きめの細かい作業、機能だけでなく外観にもこだわりを持つ……これらは日本の良さであり、日本の底力と言えるでしょう。こうした底力にあらためて目を向け、それをさらに伸ばしていくことが、日本経済の再生につながるものだと思います。

*本稿は、株式会社Fanetの資産運用応援サイト「Fanet Money Life」の「日替わりコラム」に掲載した原稿(12月19日付)を加筆・修正したものです。
http://money.fanet.biz/study/2013/12/post-109.html

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