歴史コラム「歴史から学ぶ日本経済」

Vol. 15 大塚家具と武田信玄の“教訓”~事業承継成功のカギは?

(2015年5月15日)

大塚家具、混乱の影響続く

大塚家具がこのほど発表した2015年1-3月期決算で、売上高は23%減の122億円、最終損益は7億4000万円の赤字(前年同期は4億1200万円の黒字)となった。経営権を巡る父娘の対立で企業イメージが悪化し客足が遠のいたことが大きく響いた。4月の月次売上高も前年同月比17.5%減と売り上げ減少が続いており、混乱から立ち直るのは容易ではなさそうだ。

今回の“お家騒動”は、3つの側面から見ることができる。第1は、経営路線のあり方をめぐる対立だ。父・勝久氏は会員制で顧客を囲い込み高級路線で会社を成長させてきた。しかし娘の久美子社長はもっと親しみやすい店舗づくりを推し進め、中級品も扱うなどで顧客層を広げる方針をとった。どちらが正しいかは即断できないが、ある意味で双方の主張にはそれぞれ一理ある。

第2は、企業統治(コーポレートガバナンス)のあり方だ。いくら経営路線をめぐる意見の違いがあるにしても、短期間で何度も社長が交代したのは異常だし、今回の一連の騒動を見ていてとてもコーポレートガバナンスが機能しているとは思えなかった。まさにコーポレートガバナンスの悪い見本を見せられたようなものだ。

第3は、経営の次世代へのスムーズな移行がいかに大事かということで、事業承継の成否にかかわるテーマだ。これはオーナー経営型の中小企業にとっては特に切実な問題である。大塚家具のように対立がここまで決定的になることは少ないかもしれないが、創業者が築き上げた会社を2代目が受け継ぐとき、創業者は自分がやってきたことを2代目が引き継いでほしいのは人情として当然だろうが、2代目は張り切って自分のカラーを出そうとする、あるいは時代の変化に対応して新しいことを始めたり、従来のやり方を変えようと試みるものだ。場合によっては先代のやってきたことを否定することも起こりうる。

先代はそんな2代目のやることを初めのうちは見守っているが、そのうち危なっかしいと感じて口を出すようになる。それでも2代目は言うことを聞かないため、不満を募らせるようになり、そのうち「やっぱり俺がやらなければダメだ」となる。創業者が偉大であればあるほど、こうしたケースは起こりがちだ。その対立の究極例が大塚家具だといえるだろう。

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事業承継の失敗例~カリスマ・武田信玄の場合

突然だが戦国時代に目を転じると、次世代へのスムーズな経営移行に失敗した戦国武将の多くは滅亡または敵方の軍門に下る結果となっている。逆にそれに成功した戦国武将だけが生き残ったのである。

その失敗例の見本が武田信玄・勝頼親子だ。武田信玄自身、父親の信虎を追放して武田家の当主となったのだが、信玄の代で甲斐(現在の山梨県)から信濃(長野県)、さらには駿河、遠江(静岡県)や三河(愛知県)などの一部まで勢力を拡大して戦国有数の大名となった。いわば地方の中小企業を大企業に成長させたカリスマ経営者と言ってよいだろう。

しかし信玄は後継者問題でつまずき、それが後の武田家滅亡の遠因を作ることになる。信玄には長男・義信がいて、隣国・駿河の戦国大名・今川義元の娘を正室に迎えていた。ところが、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれた5年後の1565年、信玄3段落目・は突如、長男・義信を幽閉して、廃嫡処分を下したのだ。

その2年後、義信は幽閉先で30歳の若さで亡くなっている。この事件は、義信側近の家臣が信玄暗殺を計画して処刑され、義信もその謀議に加担したとされている。謎が多く真相は不明だが、武田家中にはカリスマ・信玄の“経営路線”への反発があったことがうかがえ、それに関連して信玄・義信親子で意見の食い違いが乗じていた可能性もある。

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後継者を信頼しない信玄 vs「父を超える」目標の勝頼

嫡男を自らの手で葬った信玄は、1571年に4男・勝頼を後継者に指名した。しかし信玄は勝頼を全面的には信頼していなかったフシがある。そもそも、長男・義信が亡くなったのが1567年、そこから4年間も後継者定めていなかったのである。それに、勝頼を後継者に指名した後も一切のことを信玄自らが取り仕切り、勝頼に重要な仕事を任せることはあまりなかったようだ。

そして勝頼後継者指名からわずか2年後の1573年、信玄は上洛の途中で病に倒れ、そのまま死亡してしまう。死に際に「我が死を3年間は秘匿せよ」と遺言を残したと言われているが、裏を返せば、跡継ぎの勝頼を信頼していなかったことを表している。

実はその際の遺言には、さらに「勝頼は信勝(勝頼の長男)継承までの後見としてつとめ、越後の上杉謙信を頼れ」と言い残したという。これでは、勝頼を正式の後継者として認めていないことになる。偉大なカリスマ・信玄から見れば、勝頼は頼りなくて仕方がなかったのかもしれない。

しかしこれでは、後継者を育てることもできない。十分な準備と教育もないまま、家督を継いだ勝頼は、「父親以上の実績をあげること」を目標とするようになり、周辺地域への勢力拡大を図る。一時的には領地の大きさは信玄時代を上回るほどになった。だが、それはあまり戦略的に重要な拡大ではなく、勝頼の存在感を示す以外の成果はほとんどなかったという。

だが武田家の内部では深刻な問題が起きていた。前述のような経過から信玄時代の重臣たちも、勝頼のことを軽んずる空気があったらしく、勝頼はますます「父親を超える」ことを目指すようになる。しかしその内容は重臣たちが

納得するようなものではなく、重臣たちの心が勝頼から離れていったのだ。

そのようなときに起きたのが、あの有名な長篠の戦いである。1575年、武田軍は織田信長・徳川家康連合軍と三河国、・長篠で激突、織田の鉄砲隊に壊滅的な敗北を喫したのだが、戦いが始まる前日、武田の重臣たちは撤退を進言したにもかかわらず、勝頼が決戦を強行したと伝わっている。

結局、この長篠の戦いでの敗北以後、武田家は坂道を転げ落ちるように衰退していく。政治的・軍事的にも勢力が落ちていき、ついには1582年、織田信長に攻められて滅亡したのだった。

一般的には、武田家滅亡の原因は、勝頼にあったとされている。たしかに力不足はあっただろう。しかし信玄にも責任があったと言わざるを得ない。信玄は後継者・勝頼を信頼せず、最後まで自分がすべてを取り仕切って、権限移譲や後継者教育を十分に行わなかったのだから。そのうえ、信玄は自分が勝頼を信頼していないという態度を重臣たちに見せていたのだから、勝頼が後を継いだ後に求心力が働くわけがない。勝頼も、本来とるべき経営戦略から考えて行動するのではなく、「父親を超える」ことが目的化してしまった。

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事業承継の成功例~黒田官兵衛・長政

こうして見ると、武田家滅亡の原因は、事業承継の失敗にあったと言える。逆に、黒田官兵衛(如水)や徳川家康は事業承継をうまく進め、新しい時代を作り上げることに成功した。

黒田官兵衛は豊臣秀吉が天下を取ったあとの1589年、家督を長男・長政に譲った。その以後もなお秀吉の軍師格として活躍したが、長政への権限移譲を進めていった。これによって、長政は黒田家当主として戦さの面でも政治的な影響力の面でも有力大名として成長していったのだった。秀吉の死後、徳川家康と石田三成が対決した関ヶ原の戦いの前、長政は自らの判断で家康側につき、他の大名を家康側につかせる働きかけも積極的に行った。当日の戦場での活躍もめざましく、戦いの後、家康は黒田長政を「功績第一」と認め、福岡52万石を与えたほどである。ここまで来るともう“親の七光り”の域を超えて、2代目が自力で勝ち取った実績だ。

実はその頃、父親の如水は「あわよくば天下取り」の野望を心に秘めて、九州全域を進攻し勢力を広げていた。一説によると「家康と三成の戦いが長引けば、どちらが勝っても勢力を消耗するだろう。その間に九州全体を手中に収めて勢力を蓄えて、関ヶ原の勝者をたたけば勝てる」と考えていたという。しかし予想に反して関ヶ原の戦いはわずか1日で終わり、如水の目論見ははずれる。しかもその最大の原因が息子・長政の活躍というのだから、皮肉なものである。

後日、長政が福岡に帰って如水に戦いの様子を報告した際のエピソードが残っている。長政が「家康様は両手で私の手を取って『長政殿のおかげじゃ』とおっしゃいました」と誇らしげに語ると、如水は「家康はお前のどちらの手を取ったのだ」と聞いた。長政が「私の左手でした」と答えると、如水は「その時、お前の右手は何をしておったのだ」と言ったという。なぜ右手で家康を刺さなかったのか、という意味である。

つまり、如水と長政はそれぞれ別のことを考えていたわけで、それでも如水は時代の流れというものをよく考えて、長政に黒田家の行く末を任せたのである。

そして家臣の求心力が自分ではなく長政に向くように仕向けたりもしている。長政も父親との対立をうまく避けて家臣を意見もよく聞いたという。こうして黒田家は有力大名として幕末まで続いたのだった。

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事業承継の成功が徳川260年の基礎

徳川家康も事業承継に成功した代表的例だ。家康は1603年に征夷大将軍に任ぜられてわずか2年後の1605年、将軍を秀忠に譲った。自らは大御所として大局的な見地から政治を指導し、2代将軍・秀忠は実務を担うという形をとった。

現在の企業経営になぞらえれば、家康が会長兼CEO、秀忠が社長兼COOと言ったところだ。この体制の下で徐々に権限移譲を進めて徳川の天下を盤石なものにしていったのだった。

この間、家康と秀忠の間で若干の軋轢も起きている。家康の側近たちと秀忠の側近たちの間で対立することもあったというが、それを乗り越えたのは、家康、秀忠双方の努力があったからこそだ。まさに事業承継の成功が、260年余りにわたる徳川長期政権の基礎を作ったのである。

このように歴史をひもとくと、実に多くの教訓とヒントが残されている。現代の企業経営にとって、歴史から学ぶことは重要である。ちなみに、徳川家康は歴史を非常に勉強していたそうである。

*本稿は株式会社ペルソンのHPに掲載した原稿(2015年5月8日付)を転載したものです。

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